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豊田 有恒(とよた ありつね、1938年5月25日 - )は、日本の作家。SF作家、推理作家、翻訳家、脚本家、評論家。本名の表記は同一だが、豊田の読みが「とよだ」と濁る〔豊田有恒『日本SFアニメ創世記 虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』TBSブリタニカ、2000年、p.193。〕。ただし、姓に「とよだ」とルビがふられた著作もある〔『遙かなり幻の星』『ダイノサウルス作戦』の早川書房版単行本など。他に出版時期が古い著書で著者名に一切ルビがふられていないものもある。〕。日本SF作家クラブ会員。 == 来歴 == 群馬県前橋市の医家の生まれ。父親は京都帝国大学医学部出身であったが、在学中は短歌会で若山牧水と交際があり、卒業後は『創作』誌に小説を発表し、開業医になってからは自宅に高浜虚子を逗留させるなど、文学に理解のある人物だったという〔豊田有恒『あなたもSF作家になれる わけではない』徳間文庫、1986年、pp.271-274。〕。こうした家庭環境の中で、有恒も群馬大学教育学部附属小学校在学中から父の蔵書を読み耽り、俳句や講談や落語に熱中していた〔『あなたもSF作家になれる わけではない』pp.274-278.〕。のちにSF作家仲間になる高斎正は小学校・中学校の同級生。 中学時代は『読売新聞』の作文コンテストで群馬県下2位に入賞〔『あなたもSF作家になれる わけではない』p.284。〕。中学卒業後に上京し、武蔵高等学校に進む。中学時代の同級生には高木仁三郎と堤富男がおり、仲が良かったという〔豊田有恒『日本の原発技術が世界を変える』祥伝社、2010年、p.74〕。高校時代は同校の寮に住み、演劇部に関係していた。校内の札付きの不良生徒とばかり交際して問題も起こしていたが、優等生であるため免罪されたという〔『あなたもSF作家になれる わけではない』p.269。〕。高校2年のとき、医師だった兄が脊髄腫瘍でギプスベッドに入ったきりになった上、父の急死に遭い、家業を継ぐ必要に迫られて医学部進学を決める。 1957年、現役で東京大学理科二類(医学科進学課程を含む。当時、理科三類は存在しなかった)に合格したが、東大に悪印象を抱いたために慶應義塾大学医学部に進学。しかし入学直後に兄が快復したため家業を継ぐ義務から解放され、高校時代の猛勉強の反動で麻雀やハワイアンバンド等に熱中して一度も進級できぬまま留年を繰り返し、放校処分を受ける〔豊田有恒「学歴」 豊田有恒先生のページ 内〕。 このころ、同郷同学の高齋正を通じて元々社のSFシリーズや『SFマガジン』創刊号に触れ、SFに熱中し始める。のち、母の配慮から〔『あなたもSF作家になれる わけではない』p.295。〕武蔵大学経済学部に入学。在学中、1960年、『オール讀物』新人賞に『モンゴルの残光』を応募し落選。1961年、『時間砲』で第1回空想科学小説コンテスト(後のハヤカワ・SFコンテスト)の佳作に入賞。1962年、「火星で最後の……」(後に「絶滅者」と改題)で第2回ハヤカワ・SFコンテストの佳作に入賞し、これが『S-Fマガジン』1963年4月号に掲載されてSF作家としてデビュー。 武蔵大学在学中から、SF仲間だった平井和正の依頼で、平井原作のアニメ『エイトマン』で1963年末に脚本家デビュー〔『あなたもSF作家になれる わけではない』pp.66-67。〕〔『日本SFアニメ創世記』p.53.〕。武蔵大学卒業後、商社、広告代理店、出版社や野田昌宏の紹介でフジテレビの入社試験を受けたが全て失敗〔『あなたもSF作家になれる わけではない』p.103.〕〔『日本SFアニメ創世記』p.76.〕。大学在学中にSF同人誌『宇宙塵』の会合で会った手塚治虫に『エイトマン』での手腕を買われて〔『日本SFアニメ創世記』pp.77-78.〕、1964年、嘱託社員として虫プロダクションに入り、『鉄腕アトム』を初めとしてアニメのシナリオを手がける。大卒初任給が2万円前後の時代に、虫プロでの豊田の初任給は6万4000円だったという〔『あなたもSF作家になれる わけではない』p.106。〕。 虫プロダクションでは続けて『ジャングル大帝』などの脚本を手がけたが、1965年にいわゆるW3(ワンダースリー)事件で『ナンバー7』のキャラクターの一つ「宇宙リス」がTBSの『宇宙少年ソラン』に同種のキャラクターが登場したことから、手塚と虫プロ上層部からスパイの嫌疑を受け、虫プロを退職〔石津嵐『秘密の手塚治虫』太陽企画出版、1980年、p.171〕。TBSの通称漫画ルームに移り、『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』のシナリオを書いた。その後、手塚の誤解は解け、手塚の晩年まで公私にわたって交流は続いた。なお、問題の『宇宙少年ソラン』には石原弘一のペンネームを用いての参加となった〔辻真先『TVアニメ青春記』実業之日本社、1996年、p.51。〕。作家として売れ始めたことから、1967年の『冒険ガボテン島』を最後にアニメの脚本からは手を引き、専業の作家として活動する〔『日本SFアニメ創世記』pp.217-219.〕。 SF作家生活の初期には宇宙パトロール隊員タキイを主人公にした宇宙SFなど本格SFを手がけ〔日下三蔵『日本SF全集・総解説』早川書房、2007年、pp.63-64.〕、『タイムパトロール』などの代表作があるポール・アンダースンに傾倒して、アンダーソン作品を翻訳した他、自らオリジナルのタイムパトロールものの、ヴィンス・エベレットシリーズを執筆〔『日本SFアニメ創世記』p.221。〕〔小松左京『小松左京のSFセミナー』集英社文庫、1982年、p.110。〕、後にヤマトタケルを主人公にした初の本格的和製ヒロイックファンタジーのヤマトタケルシリーズなど歴史的な物へと変貌して行った。中でも1972年発表の『倭王の末裔』はベストセラーになった〔横田順彌『SF大辞典』角川文庫、1986年、p.113。〕〔『日本SF全集・総解説』p.66.〕。他にジュブナイル作品や、世相を風刺したドタバタ系の短編小説といったジャンルで活躍した〔『日本SF全集・総解説』pp.64.〕。 その他の代表作に、モンゴル帝国が世界を支配したパラレル・ワールドを描いた『モンゴルの残光』、架空戦記の先駆作品といえる『タイムスリップ大戦争』『パラレルワールド大戦争』など。 1973年から1980年代にかけては虫プロ時代の同僚山本暎一からの依頼で数年ぶりのアニメの仕事となる『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原案、設定にも携わる〔『日本SFアニメ創世記』p.224。〕。宇宙戦艦ヤマトについては『西遊記』に基づいて、企画書の元となる基本ストーリーを作った〔『日本SFアニメ創世記』p.236。〕。裏番組の『猿の軍団』の原作者の1人となったこともあり、「ヤマト」ではSF設定を監修する立場に退いた〔『あなたもSF作家になれる わけではない』pp.109-110〕。西崎義展と松本零士の著作者人格権をめぐる争いでは、松本を支持し〔『日本SFアニメ創世記』p.228.〕、2000年には産経新聞のコラムで、「ヤマト」は多くの人の共同作業だが大半は松本に帰するのであり、西崎が著作権を主張するなら自分にも主張する権利があると述べた〔「遮断機」『産経新聞』2000年6月19日付〕。 1986年から1987年にかけて日本SF作家クラブの会長職〔日本SF作家クラブの沿革 日本SF作家クラブ公式サイト内〕を務めた。1966年には企画集団パロディギャングを広瀬正、水野良太郎、伊藤典夫らと結成するもまもなく脱退〔牧眞司「証言「広瀬正とは何者だったのか?」」『小説すばる』2009年1月号、pp.159-160。〕。1982年頃から1991年にかけては、下北沢で創作集団パラレル・クリエーションを主宰し、出渕裕、岬兄悟、星敬、米田裕らが在籍した〔SFマガジン編集部「第4回日本SF評論賞贈呈式レポート」『SFマガジン』2009年4月号.〕〔小黒祐一郎「この人に話を聞きたい 出渕裕」『アニメージュ』2008年7月号、p.116。〕〔「とり・みきインタビュー」『ぱふ』1985年3月号、p.11〕〔米田裕プロフィール 日本SF作家クラブ公式サイト内〕。 作家業の傍ら、2000年に島根県立大学総合政策学部教授に就任〔豊田有恒『いま韓国人は何を考えているのか』著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) amazon.com〕。日本地域文化論などを教えたが、2009年3月末に定年退職し〔島根県立大学学報 第42号 2009年4月20日〕、名誉教授に。 2013年、他のベテラン作家とともに、日本SF作家クラブの名誉会員に〔『日本SF短篇50(1)』早川書房〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊田有恒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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