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豊田貞次郎 : ウィキペディア日本語版
豊田貞次郎[とよだ ていじろう]

豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年明治18年)8月7日 - 1961年昭和36年)11月21日)は、日本海軍軍人政治家実業家。最終階級は海軍大将海兵33期首席。和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。従二位勲一等
== 生涯 ==

=== 海軍軍人時代 ===
旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。同期に卒業順位第26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌の貞次郎はタイプこそ正反対だが、将官に昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ、将来を嘱望された。日露戦争が終わったばかりの1905年明治38年)11月に第33期は卒業し、東南アジア方面へ遠洋航海に出た。少尉中尉時代は「香取」「弥生」「千歳」に乗艦、砲術・水雷学校普通科をはさんで「敷島」「薩摩」の乗組として腕を磨いた。
1910年(明治43年)大尉昇進と同時に海軍大学校乙種学生、砲術学校高等科で計1年学び、いずれも優等で卒業。翌年にイギリス駐在を命じられる。着任した豊田はオックスフォード大学に留学し、1914年大正3年)に帰国命令が出るまで2年半にわたって勉学に励んだ。
帰国後は「比叡」分隊長を経て第4戦隊参謀に任じられた。第一次世界大戦末期、ドイツは無制限潜水艦作戦を宣言して輸送船団を無差別攻撃したため、イギリスは日本に輸送船団の護衛隊派遣を依頼した。豊田が在籍する第4戦隊は1917年(大正6年)4月、第3特務艦隊の主力としてシドニーに派遣され、オーストラリアニュージーランド間の船団護衛を担い、豊田も参謀に留任してシドニーで指揮を取った。この派遣直前に少佐へ昇進している。
1917年(大正6年)12月、安全が確保されたオーストラリアから第3特務艦隊は撤退し、帰国した豊田は海軍大学校に再入学し、甲種学生として2年間学んだ。この時も中学卒業以来獲得してきた首席卒業を勝ち取り、自他共に認めるエリートとなった。卒業後は海軍省の中枢たる軍務局員に任じられ、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)まで3年間務め、完全に幹部養成コースに乗った。この間に中佐へ昇進している。
金剛」副長を半年務めた後、1923年(大正12年)、海外大使館附武官では首位と目されるイギリス大使館附武官に任じられ、ロンドンに向かった。ロンドン生活は4年間に及び、大佐に昇進している。しかも帰国命令は出ず、国際連盟で開催されているジュネーブ海軍軍縮会議の随員に横滑りしたため、帰国したのは1927年昭和2年)末である。このように海外生活が非常に長いことから、海外事情は抜群に詳しかったが、国内事情には疎く、軍縮会議の随員たちとは反りが合わないことが多かった。
帰国後、「阿武隈」「山城」の艦長を歴任し、再びロンドン海軍軍縮会議の随員として渡英した。全権・財部彪の発言権は強く、豊田自身は条約の可否に対する主義主張もなかったため、豊田が口出しする余地はなかった。条約が成立して帰国すると少将に昇進し、横須賀鎮守府参謀長を経て1931年(昭和6年)に軍務局長に任じられた。
ところが就任から半年で、豊田は軍務局長を更迭される。その経緯を示す資料は残されていないが、軍令部長に就任したばかりの伏見宮博恭王大将に対して失言したためではないかと推測されている。「大臣になりたい」が口癖のエリートが、初めて挫折を経験した。大学校時代以来、ろくに軍事の学習をしていない豊田に対して宛がわれたのは、専門としていた砲術とはまったく関係のない航空本部であった。1932年(昭和7年)11月の定期異動で豊田は広工廠長に任じられた。誰もがもはや豊田の命脈は尽きたものと思っていた。
しかし、豊田はその地位に不満は持っていたものの、捲土重来の機会を伺うとともに、自らの将来に新たな展望を持つようになっていた。広工廠は先発の造船工場とは異なり、航空機整備を主力とする特殊な軍需工場であった。航空機への理解は徐々に高まりつつあったが、整備に必要な工具や部品も満足に調達できない厳しい環境にあった。現場に叩き落された豊田は、現場の窮状を肌で感じ取り、工業生産力の向上が必要であることを認めた。のちに政治家・経営者として一貫して鉄鋼業の振興に務める豊田の原点となる。
1934年(昭和9年)5月に艦政本部総務部長、1936年(昭和11年)2月に呉工廠長、1938年(昭和13年)11月に航空本部長1939年(昭和14年)夏に3ヶ月間艦政本部長を兼任)と、12年度の佐世保鎮守府長官を除くと軍事技術の最前線での勤務が続いた。豊田は佐世保鎮守府長官時代に山本五十六海軍次官から次期次官候補として挙げられた。豊田は山本に「私が親補職(佐世保鎮守府長官)にあるからといって、(親補職ではなく宮中では格下にあたる)次官にならぬということはない」という趣旨の返書を送り、山本を鼻白ませた。この時の人事では山本が慰留されたために豊田の次官就任は白紙となったが、次官に最も近いポストである航空本部長・艦政本部長まで復帰することができた。
1940年(昭和15年)9月、豊田の雌伏の時間は終わった。海軍大臣吉田善吾が病気辞職し、次官・住山徳太郎も退いたため、豊田に念願の次官が回ってきた。最大の懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、海軍大臣・及川古志郎を差し置いて活動した。豊田自身は三国同盟を好ましくないと認識していたが、外務省帝国議会・陸軍が賛成している状況下で海軍が孤立することを警戒していた。同盟成立後、首相・近衛文麿に「海軍全体としては反対だが、国内の調和を優先して政治的にやむなく賛成した。対米英戦に有利になるかどうかは別問題である」と暗に対米交渉の責任は外務省と政府の責任であることを告げた。まさかその外務大臣の椅子に自身が座ることになるとは、当時の豊田は夢想だにもしなかった。
次官在任中は、次官室に歴代次官の肖像や名札を陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせたが、井上成美はこれを「さながらナチスの第五列の如し」と皮肉り呆れている。また及川を差し置いて自らのもとで政務に関する案件を決裁してしまうことも多く、こうした行き過ぎた自己顕示欲は「豊田大臣、及川次官」という陰口となって跳ね返ってくることになった。念願の次官だっただけに、その職への執着もまた人一倍強く、内閣改造が取り沙汰されるようになりはじめると、今度はあからさまな留任工作を行った。しかし改造当日、副官らの前で「大臣は代わるが、俺は代わらないから」と豪語した直後に次官更迭の報を受け面目丸潰れとなってしまった。同じ頃、山本五十六がそろそろ潮時と連合艦隊長官を辞めたい旨を及川大臣に対して表明、「後任には古賀峯一嶋田繁太郎、若返りを図るなら豊田副武か豊田貞次郎を推す」と書き送っている。もちろん前の二人が本命で、後の二人はどうせ名が上がるだろうからと付け足した諧謔である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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