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豊真将 : ウィキペディア日本語版
豊真将紀行[ほうましょう のりゆき]

豊真将 紀行(ほうましょう のりゆき、1981年4月16日 - )は、山口県豊浦郡豊浦町(現在の下関市)出身で錣山部屋に所属していた元大相撲力士。本名は山本 洋介(やまもと ようすけ)。現役時代の体格は身長186cm、体重151kg、得意手は右四つ・寄り・左前褌(みつ)。四股名の由来は、〈豊〉は合併のため消滅した豊浦町から、〈真〉は本人の心、〈将〉は大将、〈紀〉はものごとの初めを意味する出身校の監督の一字、〈行〉は父から一字をもらったもので、父母への御礼に従うという意味が込められている。最高位は東小結2012年5月場所)。趣味は読書、史跡巡り。
== 人物 ==
地元の旧豊浦町立豊浦中学校(現在の下関市立夢が丘中学校)には校庭に立派な土俵小屋があり、山本少年はそこで高校生らと混じって鍛えられ、地元の大会でも優秀な成績を修めていた。そのときの後輩には境川部屋豊響(本名:門元隆太)がいる。中学卒業後は誘いを受けた埼玉栄高等学校に進学し故郷を離れた。
埼玉栄高校では全国大会に出場して活躍し、学業では学年約1600人中一桁の成績を取るなど、文武共に優秀であった。その後日本大学に進学、入学当初からレギュラー格で活躍するも、蜂窩織炎の悪化により1年で相撲部を退部。〔そのため白石や里山とは稽古したことがなかったという。〕一時は相撲を諦め、警備員鳶職などアルバイト中心の学生生活を送っていた。相撲をやめて以降、在学中はバイクを嗜んでいたいという。〔豊真将(中)(1/2ページ)  日本経済新聞 2011/11/14 17:44 〕日大相撲部の同期には白石(のちの白乃波)や里山がいる。
蜂窩織炎の状態が良化した頃、白石と里山の大相撲入りに触発され自身も再び相撲を志す。大学を中退してアルバイト先の社長の紹介で開設されたばかりの錣山部屋に入門し〔同じ山口県出身の元放駒親方も彼が中学生の頃から目をつけていたというが、中学時代は「高校に進学する」ということであきらめ、高校時代は「大学に進学する」ということであきらめ、大学時代は「相撲を辞めた」ということであきらめたという。〕、2004年3月場所に前相撲から初土俵を踏んだ。この時新弟子入門期限間近の22歳11か月であった。
約3年相撲から離れていたこともあり、入門当初は母校でもある出稽古先の埼玉栄高校で、エースの澤井豪太郎(豪栄道)に歯が立たず、1年生の佐野マービン・リー・ジュニア(元:幕下大翔勇、現在のマービンJr.)にさえ分が悪いなど苦労したこともあった。入門当初の豊真将に対する錣山の当時の印象は「弱かった。幕下に上がるまで4~5年かかるな」というものであり、実際に学生相撲出身者としてはまるで精彩を欠いた滑り出しであった。稽古で序二段に勝ったり負けたりの繰り返しであるばかりか初めて番付に名前が載った2004年5月場所では序ノ口の土俵にもかかわらず次々と電車道で運ばれて4勝3敗と勝ち越すのがやっとの状態だった。〔エリート街道を迂回して入門 小結・ 豊真将(中)(2/2ページ) 日本経済新聞 2011/11/14 17:44 〕それでも「(新たな生活は)新鮮だったし、充実していた」と後年述懐するところに表れるようなひたむきさで基礎からみっちりと稽古を積み、井筒部屋での出稽古で鶴竜らとともに汗を流した結果徐々に本来の力を取り戻し、同年11月場所では三段目で全勝優勝。スピード出世で番付を上げ、翌2005年1月場所、初土俵から5場所で幕下に昇進。幕下上位でも安定した成績を残し、同年11月場所には東幕下3枚目まで番付を上げ、5勝2敗と勝ち越し。続く2006年1月場所で十両に昇進した。その場所も好調で東十両12枚目で10勝5敗と勝ち越し、翌3月場所も12勝3敗と惜しくも十両優勝を逃したが大勝した。5月場所、初土俵からおよそ2年で新入幕(東前頭11枚目)。〔前相撲からの所要13場所での幕内昇進は旭富士、貴花田(後の貴乃花)、武蔵丸の3横綱と並び、史上9位タイ(当時)の速さ。〕
豊真将の入幕は山口県出身力士としては35年ぶりだった。そのため、地元旧豊浦町とそれを引き継いだ今の下関市はもちろん、山口県全体で応援をしている。NHK山口放送局のニュース番組では、場所中連日その日の取り組みの結果が、豊響ら他の郷土力士の分とともに伝えられ、特に「やまぐち845」では、トップ項目で扱われる日もある。
新入幕の場所で脚を傷め、また立ち合いに迷いが出たこともあって、入幕直後は下位でややもたついていたが、入幕4場所目の2006年11月場所は一躍成長を見せた場所になった。初日に豊ノ島に敗れたが、その後は11日目まで10連勝で全勝の横綱朝青龍を追った。12日目に初めての大関戦となる栃東との一番に敗れ2敗に後退したが、その先も崩れず、優勝はならなかったものの14日目まで朝青龍の優勝を引き伸ばした。12勝3敗の優勝次点の成績と相撲内容が評価され、敢闘賞技能賞を同時に受賞した。
2007年1月場所は西前頭4枚目の地位で3日目には大関琴欧洲を初対戦で破ったものの、7勝8敗と負け越した。翌3月場所は1月場所に続き、琴欧洲を始め幕内上位力士を相手に内容のいい相撲で好成績を残し、11勝4敗の好成績で2度目の技能賞を受賞した。新三役の可能性があったが、西関脇で7勝8敗だった琴奨菊が西小結、西前頭筆頭で8勝7敗だった豊ノ島が東小結となったため、翌5月場所は東前頭筆頭に据え置かれた。その場所は9日目に大関・千代大海との初対戦で勝利したが、終盤の4連敗で5勝10敗と大きく負け越した。9月場所は西前頭筆頭で8勝7敗と勝ち越し、新三役への昇進が確実と見られたが、西前頭3枚目で10勝5敗の琴奨菊が西小結となったため、11月場所での小結昇進は見送られた。
翌2007年11月場所では東前頭筆頭で3勝12敗、翌2008年1月場所では西前頭7枚目で4勝11敗と2場所連続で大敗を喫した。後にこの不振は血中コレステロール値の異常とその投薬治療によるものであったことが明かされた。投薬治療を食事療法に切り替えてからは、3月場所、5月場所、7月場所をいずれも9勝6敗と勝ち越した。
2008年7月場所後に左手首を手術したが、術後の経過が思わしくないため、翌9月場所は西前頭2枚目の地位ながら自身初の休場(全休)となり、再出場の11月場所も負け越したが、幕尻(東前頭16枚目)に下がった2009年1月場所は11勝4敗の好成績をあげて2度目の敢闘賞を受賞した。2009年3月場所は序盤まで2勝3敗だったが、6日目からの9連勝で11勝4敗の好成績をあげて、2場所連続3度目の敢闘賞を受賞し新三役の可能性があったが、5月場所は東前頭筆頭に据え置かれた。この場所は初日から14連敗と苦しんだが、千秋楽の嘉風戦に勝利して1991年7月場所の板井以来となる15戦全敗は免れた。取り組み後、豊真将は涙ぐみ、館内は大歓声に包まれた。
2010年5月場所で東前頭2枚目に番付を上げたが場所前に首を痛め、初日から1勝もできないまま7日目から休場した。
2010年7月場所では東前頭13枚目まで番付を下げたが、初日から10連勝し優勝争いに加わる。14日目の徳瀬川戦に敗れるまで幕内優勝の可能性を残し、最終的には11勝4敗で4度目の敢闘賞を受賞した。翌9月場所は東前頭2枚目で7勝8敗と負け越した。
2010年11月場所前には、深刻なアクシデントに見舞われた。10月23日の秋巡業、尼崎場所で右足親指の傷口からばい菌が入る破傷風で、30日に突然41度を超す高熱が出た。病院に駆け込んだが、一時は意識を失うほどの重い症状で、生死をさまよう体験もした。豊真将自身「三途川で、死んだじいちゃんが出てきた。あんなことは人生で初めてだった…」と語った程だった。3日間高熱はひかなかったものの完治して退院、場所前には出稽古ができるまでに回復した。同年11月場所では東前頭3枚目で7勝8敗と負け越したが、2大関(琴欧洲・把瑠都)に土をつけた。なお、琴欧洲戦の勝利は2007年3月場所以来、把瑠都戦の勝利は2006年11月場所以来。
2011年7月場所は東前頭9枚目で11勝4敗の成績を挙げ、5回目の敢闘賞を受賞した。翌9月場所では、東前頭筆頭で10勝5敗と2桁勝利を挙げ、同年11月場所でようやく待望の新三役(西小結)昇進を果たした。なお30歳6ヶ月での三役昇進は、1958年以降初土俵の力士としては第4位の高齢昇進だった〔もうすぐパパの豊真将 史上4位の高齢新三役! スポニチ 2011年11月1日 06:00 〕。しかし新小結の11月場所は初日から7連敗を喫し、中日でやっと初白星を挙げるも9日目で負け越しが決定、4勝11敗と大きく負け越した。東前頭4枚目へ降下した翌2012年1月場所でも7勝8敗と負け越したが、翌3月場所は西前頭5枚目で11勝4敗の好成績を挙げ、翌5月場所は3場所ぶりに三役復帰、現在最高位となる東小結に昇進したが、横綱・大関陣は1人も下せず4勝11敗と大きく負け越した。11月場所は3場所ぶりに三役復帰(西小結)したが、4勝11敗と大きく負け越した。翌2013年1月場所は左肩腱板断裂により全休し〔豊真将、朝赤龍が休場 大相撲初場所初日 47news 共同通信 2013/01/13 11:54〕、翌3月場所は初めて十両へ陥落。その場所も怪我が完治しなかったため全休した〔豊真将 左肩腱板損傷で休場、治療に専念 スポニチ 2013年3月10日 12:00〕 。幕下落ちも懸念されていたが、翌5月場所の番付には西十両14枚目と十両にとどまった。その場所では中盤に4連敗したがその後持ち直し、9勝6敗と勝ち越した。翌7月場所も9勝6敗と勝ち越し、次の9月場所には西前頭13枚目まで大きく番付を上げた。西十両6枚目から9勝6敗で9枚の上昇は異例である。その9月場所では9日目に左肩のテーピングが取れ、10日目に1年ぶりの幕内勝ち越しを決めるなど調子を万全に近いところまで戻した様子がうかがえた。最終的に10勝5敗と二桁勝利を挙げた。2014年1月場所前の1月3日には虫垂炎の手術を受け、場所直前の様子は師匠によると「手術した傷口がまだ塞がっていないので、今場所は、途中から出場することも厳しいと思う」と言い、このため豊真将は1月場所を休場することを選択した。〔稀勢の里 初日は豊ノ島と対戦 2014年(平成26年)1月10日13時6分 NHK Webニュース 〕〔『相撲』2014年4月号
: 本人は「自分は以前から自己管理が甘いところがあり、今回は本当に勉強になった」と雑誌内のインタビューでこの虫垂炎についてコメントを寄せていた。〕翌3月場所は2度目の十両陥落となったが、1月場所中から既に稽古場に降りていたこともあり、絶好調で格の違いを見せつける相撲を展開。初日から14連勝して千秋楽に北の富士賞に王手をかけたが、千秋楽に大道に敗れて全勝優勝はならなかった。それでも堂々14勝1敗で十両優勝を飾った〔豊真将が13連勝で十両優勝 NHKニュース 3月21日 17時16分〕。東前頭7枚目に地位で迎えた同年5月場所の途中、同郷の元大関であり理事長経験者でもある先代放駒こと魁傑が急死するという悲報に見舞われたが、最終的には9勝6敗の勝ち越しを果たす。なお場所途中に魁傑の訃報が伝えられただけに、この場所の9日目に同じ山口県出身の幕内力士である豊響と対戦したことは話題になった。〔 MSN産経ニュース 2014.5.19 20:53〕東前頭2枚目まで番付を戻した7月場所は5日目の日馬富士戦で右膝前十字靱帯損傷など右脚を4カ所も痛める重傷を負い、全治2ヶ月の診断を受ける。怪我については、右の膝から太ももが左の倍近くも腫れ上がって自力で歩けず「足の先までしびれている」と話す。6日目から途中休場したが早期復帰に向けて手術をしない方針を明かした。〔豊真将 右脚重傷から再起誓う「諦めない」「手術はしない」  Sponichi Annex 2014年7月20日 17:45 〕西十両9枚目まで下がった翌11月場所は、8月に手術を受けた右膝の回復が思わしくないため、錣山が直前まで様子を見た末に初日から休場(初日は不戦敗)。同日「右膝脱臼で今後2か月のリハビリ加療を要する」との診断書を日本相撲協会に提出した。〔十両豊真将が膝脱臼で休場 nikkansports.com 2014年11月9日11時33分〕翌2015年1月場所は幕下転落。この場所は初日から休場となった後、6日目の1月16日に引退を発表。年寄・立田川を襲名した。2016年1月30日には断髪式が行われ、約300人がはさみを入れた。断髪式は全席の観客に見やすくするため、正面→東→向正面→西→正面と向きを変えながらの、いわゆる回転式で進行したため、これがおそらく角界初の試みであるとして話題となった。〔元豊真将の立田川親方“回転式”断髪式「絶対いい」 日刊スポーツ 2016年1月30日16時50分〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「豊真将紀行」の詳細全文を読む



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