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豊薩合戦(ほうさつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争である。 == 天正年間の大友・島津の関係 == 天正6年(1578年)10月、大友家当主・大友義統と隠居の父・宗麟は、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始した。しかし日向高城川(小丸川)で島津義久軍に大敗して佐伯惟教・惟直父子や吉岡鎮興ら多くの将兵を失って大敗し、宗麟らは豊後に後退した(耳川の戦い)。 この大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立。また筑前でも秋月種実や筑紫広門らが離反して島津家に転じた。さらに大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こった。 一方、島津家は耳川の大勝を契機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。これに対し大友家では、領内で反乱が相次いでいるため単独で対抗できなかったので、当時中央で勢力を広げていた織田信長に接近。天正7年(1579年)には信長を通じて義統の官位を叙任してもらい、天正8年(1580年)には信長の仲介のもと、島津義久との間に「豊薩和睦之儀」を成立させた。 だが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が死去すると豊薩和睦は消滅。天正12年(1584年)3月には龍造寺隆信が島津軍に敗れて戦死し(沖田畷の戦い)、嫡男の政家は島津家に降り、耳川以降に成立していた大友・龍造寺・島津の九州三者鼎立時代は終焉。大友と島津が九州の覇権を争う二者並立時代となった。 隆信の戦死後、宗麟は島津家の勢力伸張を抑えるため、立花道雪・高橋紹運らの筑前勢を筑後に進出させた。これに対して義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼし(阿蘇合戦)、また秋月種実や龍造寺家晴らを筑後に進出させて道雪らと高良山で対陣させた。だが、この対陣中の天正13年(1585年)9月11日、道雪が高齢のために陣没し、大友軍は筑前に撤退する。道雪の死は、家運が傾いた大友家の大黒柱の崩壊であった。このため宗麟は、中央で信長の天下統一事業を受け継いでいた豊臣秀吉に臣従を誓うことで援軍を要請。だが、秀吉は三河の徳川家康と交戦状態だったため、当時は援軍を派遣することは不可能な状態にあった。そのため、秀吉は信長と同じように政治的に仲介することで豊薩和睦を行なおうとしたが、島津義久はこれを断った。 島津家では道雪の死を契機に筑前進出を行なった。大友家の本国である豊後に攻め込むには筑前には有力な大友方である立花山城の立花宗茂(統虎)や岩屋城の高橋紹運、宝満城の高橋統増(立花直次)らが存在しており、これらを討たなければ豊後攻略の際の妨害になる可能性があったためである。島津義久は従弟で老中かつ大隅串良地頭を務める島津忠長を総大将とした島津軍に岩屋城を攻撃。岩屋城は高橋紹運の奮戦空しく落城したが、島津軍はこの城攻めでかなりの死傷者を出し(岩屋城の戦い)、宝満城は落としたものの、立花山城は宗茂の奮戦により落とせず、また島津軍の消耗も激しく、薩摩に撤退した。 しかし高橋紹運の死で大友家の筑前勢の脅威は払拭され、軍を立て直した島津家は天正14年(1586年)10月中旬に島津義弘(義珍)の3万が肥後路から、島津家久の1万が日向路からそれぞれ侵攻を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊薩合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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