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デロレン祭文[-さいもん] デロレン祭文(-さいもん)または(-ざいもん)とは、門付芸・大道芸のひとつで法螺貝を吹きながら説経祭文を語る芸能、およびその芸人。「貝祭文(かいさいもん)」ともいう。
== 概要 == デロレン祭文は、江戸時代に隆盛した歌祭文の系統に属し、「ちょぼくれ」「ちょんがれ」「うかれ節」などと同類の語りもの芸能である〔郡司(1953)pp.208-209〕〔松島(1979)p.635〕。江戸中期に発生し、とくに幕末から明治初年にかけて全国的に広がった〔(成城大学)〕。 ちょぼくれは、関東地方にあってはタンカ(啖呵、詞)の多いものとなり、錫杖または、それを短くした金杖のほか拍子木や張扇も用いたが、ことに法螺貝で調子を合わせたものを「デロレン祭文(貝祭文とも)」と称した〔〔、また「上州祭文(上州左衛門とも)」と呼ぶこともあった。法螺貝を口にあて「デロレンデロレン」と合い間に入れたため、この名があり、語りの要素が強い〔〔。ギターや三味線の弾き語りのように一人で演じることもあったが、三味線を伴奏につけることもあり、浪花節への緩やかな移行が伺える。 当初は屋外芸能として生まれ、江戸の町修験(いわゆる俗山伏)によって演じられたが、寛政(1789年-1801年)のころには「祭文太夫」と呼ばれる俗人の門付芸となり、北関東・東北、さらに北陸・近畿・中国の各地方へと広がった〔〔。その一方、江戸では、ヒラキでの小屋がけによって興行化〔河野桐谷『史話 江戸は過ぎる』には、「江戸見物の話」として下総香取郡から常陸江戸崎のそば屋で修業し、明治2年に江戸見物に来た人物が、浅草寺観音堂の周りで「デロレン左衛門とか、猿芝居とか、スットコ踊りとか」を見た話が出てくる(p.148)〕し、明治以降は寄席演芸化した〔。明治中期ころまでさかんにおこなわれた〔明治期の新聞の演芸記事を集成した倉田喜弘『明治の演芸』全8巻には、頻繁に祭文語りが登場する。〕〔浪花節の寄席芸全盛期の各人物伝は、本人・師匠・親に祭文語りが多い。〕〔明治40年発行の東京市役所『東京案内』に祭文の席として唯一、下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できる。〕が、都市では西日本を中心にして広まった浪花節に押されて衰退する一方、地方に広まったデロレン祭文は関東・東北でのこり、ことに山形県一帯や〔無着成恭『山びこ学校』〕仙台市などでは昭和30年代までその跡がみられた〔。また、三重県・奈良県の一部でもかろうじておこなわれていた〔。 このようにしてのこった各地のデロレン祭文を分析すると、フシ(音曲部分)は七五調を基調とし、コトバ(語り部分)は吟誦に似て日常の口語とは異なっており、また、山形にあっても三重・奈良にあっても、それぞれの土地の方言では語られず、やや文語調の独特の語りことばによって語られていた〔〔語りことばに方言を使用しない現象は、浪曲や講談などにおいてもあてはまる。兵藤(1997)p.4〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デロレン祭文」の詳細全文を読む
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