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貞心尼(ていしんに、寛政10年(1798年) - 明治5年2月11日(1872年3月19日))は、江戸時代後期の曹洞宗の尼僧。良寛の弟子。歌人。俗名は奥村ます。法名は孝室貞心比丘尼(こうしつていしんびくに)、孝室貞心尼(こうしつていしんに)、。 == 経歴 == 貞心尼の法名を持つ尼僧は複数いるが、ここでは、良寛愛弟子の孝室貞心尼について主に言及する。 《 貞心尼の名を一般に広めたのには、大正初期に刊行された『北越偉人沙門良寛全伝』(西郡久吾著)および『北越名流遺芳』(今泉鐸次郎著)の二著に貞心尼の名前と『はちす〔蓮〕の露〔つゆ〕』が紹介されたことが基となり、やがて昭和初年、相馬御風〔そうまぎょふう〕の『良寛と貞心』その他一連の良寛研究で普及した。 》(『小出町史 上巻』1015頁) 孝室貞心尼は、長岡藩 奉行組士 五代 奥村五兵衛(嘉七)〔奥村家5代目五兵衛。代々、奥村五兵衛を襲名=上杉艸庵「貞心雑考」昭和3年 による〕の次女・ます として寛政十年、越後国長岡(現:新潟県長岡市)に生まれた。『柏崎文庫』(別名『甲子次郎文庫』、関甲子次郎著:せききねじろう)第11巻9頁に「釋迦堂庵主 貞心尼 長岡藩士 奥村五兵衛の二女 寛政十年」と記されている(柏崎市図書館ソフィアセンター所蔵)。 貞心尼の本名「ます」については1958年(昭和33年)に木村秋雨の調査によって判明した。天保某年(五年頃といわれる)に小出〔現:魚沼市本町1丁目北側付近〕を訪れた貞心尼は、画人・松原雪堂〔せつどう。本名は松原俊蔵。現在の「タケヤ時計店」が屋敷跡〕を訪ね、良寛肖像画を描いてもらいたいと依頼。その画の礼に良寛からの手紙を渡した。〔松原雪堂の屋敷跡の位置については、魚沼良寛会パンフレットによる。〕 《 先日は眼病のりやうじがてらに与板へ参候。そのうへ足たゆく腹(はら)いたみ、御草庵(えんま堂)もとむらはすなり候。寺泊の方へ行かん(と脱)おもひ、地蔵堂中村氏に宿り ゐまにふせり、また(まだ)寺泊へもゆかす候。ちきり(契り)にたかひ(違い)候事 大目に御らふ(覧)じたまはるべく候。 秋はぎの花のさかりもすきにけり ちきり(契り)しこともまたとけ(遂げ)なくに 御状は地蔵堂中村にて 被(披)見致候〔披見=ひけん。手紙や文書を開いて見ること〕 良寛 八月十八日 あて名がないのは貞心尼が切り取ったからとされている。 この書幅にはさらに一つの逸話がある。それは貞心尼の本名であるが、実に昭和も戦後しばらくまで不明とされてきたもので、「ます」と分かったのは、この書幅の巻き止めに、「升尼あて」(升すなわちマス)と書かれてあったことによるという(木村秋雨『貞心尼雑考』昭和三十三年)。おそらく書幅の最初の所持者 雪堂家で覚えとして記したものであろう。 》(『小出町史 上巻』1014頁) 俵谷由助著『良寛の愛弟子 貞心尼と福島の歌碑』〔柏崎市図書館蔵 51頁 1967年(昭和42年) 長岡童話研究会〕によれば、菩提寺・長興寺にある「天明四年甲辰(一七八四年)五月吉日常什物〔じょうじゅうぶつ〕」に、同家の過去帳が記され、「〔菩提寺〕 十三世慧剛大和尚が書きおかれた奥村家の過去帳が現存している」という。 俵谷はその所在を、「牧野藩奉行組士」「奥村五兵衛祖 又は嘉七 奉行組士二十五石鉄砲蔵師」〔鉄砲蔵とは城内で鉄砲・火薬・火縄を貯蔵するところ〕、「五代 明岳智燈居士 文政九丙戌正月朔日」と記述し、奥村家の過去帳〔日拝帳〕にも「壱日 文政九戌正月 五代五兵エ」〔原文のまま〕とあることから、貞心尼の父は、文政九年一月一日(1826年2月7日)に亡くなっている。 上杉艸庵〔そうあん。本名は涓潤:けんじゅん〕は《 前号所載、私達が貞心尼の生家、奥村の家を訪ねたのは、今昨年の日記を見ると実に昭和二年一月十七日である。其の時の模様は今ここでは略するとして、仝家の過去帳ーーこれは仝家の菩提寺長興寺にて写したもの〔1923年(大正12年)7月11日に長興寺の過去帳を上杉が記録〕ーーを掲げてみる。 二十五石 荒屋敷 奥村嘉七 御鉄砲台師 五兵衛 奥村五兵衛 先祖 又は 嘉七 》としており、「鉄砲台師」と記述している。(上杉艸庵「貞心雑考」1928年(昭和3年)=「貞心尼考」全国良寛会柏崎総会記念誌 1995年(平成7年) 中村昭三編 23頁)〔会津藩ほか多くの藩には「鉄砲台師」が武具奉行のもとに設けられているのでこの記述が正しい可能性が高い。鉄砲作りは、銃身を「鍛冶師」、銃床を「台師」、引き金・カラクリを「金具師」の3師の分業制でおこなわれた。〕 〔俵谷は「鉄砲蔵師」、上杉は「御鉄砲台師」としているが、長興寺の過去帳を確認するしかない。上杉の「鉄砲台師」は実際の要職であり、具体的で信憑性がある。魚沼市 櫻井彦右衛門によれば、「五兵衛」「右衛門」は長男に付けられる名前であり、「嘉七」「彦助」は長男の名前ではないという。したがって、「嘉七」は、分家した初代の名前と考えられる。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貞心尼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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