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負芻(ふすう、? - 紀元前223年?)は、中国戦国時代の楚の最後の王(在位:紀元前228年 - 紀元前223年)。考烈王(名は『史記』「楚世家」では元で、「春申君伝」では完と記される)の庶子。姓は羋、氏は熊。『史記』「楚世家」によれば哀王猶の庶兄である。 紀元前228年に、負芻を支持する楚の国人が王宮を襲撃して哀王を殺害し、負芻は自ら楚王に即位した。だが負芻は主体性の欠けた君主で、この頃の楚は既に往年の強大国の面影は喪失していた。紀元前224年に秦の老将軍王翦が蘄(き)で楚の大将軍の項燕(項羽の祖父。昌平君を擁立)を討ち取った。翌年になって王翦は蒙武と共に楚を攻め、都の陳にいた王の負芻は捕虜となった。ここで春秋時代から続いた楚はついに滅亡したのであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「負芻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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