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貢の銭[みつぎのぜに]
『貢の銭』(みつぎのぜに())は、ルネサンス期のイタリア人画家マサッチオが描いたフレスコ画。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂(Santa Maria del Carmine, Florence)ブランカッチ礼拝堂(Brancacci Chapel)の壁画で、最終的には共同制作者でマサッチオの師ではないかとも考えられているマソリーノが完成させた。『貢の銭』は保存状態が悪く、その後何世紀にもわたって大きな損傷を受けるままになっていたが、1980年代に礼拝堂とともにほぼ完全に修復されている。 1420年代に描かれたこの作品は27歳で夭折したマサッチオの最高傑作といわれており、遠近法と明暗法(キアロスクーロ)の革新的な表現手法によって、ルネサンス芸術の発展にも大きな役割を果たしたと見なされている〔Gardner, pp. 599-600.〕〔Watkins, p. 95.〕。描かれているモチーフは『マタイによる福音書』に書かれている聖ペトロに関するもので、神殿への税を支払うことが出来ないペトロに対し、キリストが魚の口から銀貨を見つけるように説いたエピソードである。 == ブランカッチ礼拝堂 == ブランカッチ礼拝堂は、サンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂の教会堂(バシリカ)として1366年あるいは1377年にフィレンツェの商人ピエロ・ディ・ブランカッチによって建てられ〔Ladis, p. 21.〕、後にピエロの甥のフェリーチェ・ブランカッチの所有となっている。フェリーチェは1423年から1425年にかけて、マソリーノに聖ペトロを描いた一連のフレスコ壁画の制作を幾度か依頼した。ペトロがピエロの洗礼名で、さらにブランカッチ家の守護聖人でもあったためだが、教会大分裂期のローマ教皇を支持するという意味もこめられていた〔Schulman, p.6.〕。 ブランカッチ礼拝堂の壁画作成を請け負ったマソリーノは、18歳年少のマサッチオを共同制作者として選んだが、マソリーノは1425年にハンガリー、1427年にローマを訪問してフィレンツェを去り、ブランカッチ礼拝堂壁画の完成はマサッチオに任せられることになる。しかしマサッチオも壁画が完成する前の1427年あるいは1428年にローマのマソリーノの元へと行っており、その後ブランカッチ礼拝堂のフレスコ壁画を完成させたのはフィリッピーノ・リッピで、1480年代になってからだった〔Schulman, pp. 7-10.〕。最終的な壁画全体の完成はリッピの仕事とはいえ、『貢の銭』自体は間違いなくマサッチオの作品であると認められている〔Watkins, p. 326.〕。 ブランカッチ礼拝堂の一連のフレスコ画は、何世紀にも渡って手を加えられたり、大きな損傷を受けたりしている。1746年には後期バロックの画家ヴィンチェンツォ・メウッチによって、マソリーノが描いたフレスコ画のほとんどが上から描きかえられた。さらに1771年には教会が火災にあって焼失してしまっている。ブランカッチ礼拝堂の建物自体は火事による被害はなかったが、フレスコ後には深刻な損傷が残った〔Schulman, p. 18.〕。1981年から1990年にかけて、ようやく礼拝堂の大規模な修復が実施され、フレスコ壁画もオリジナルの状態に復元修復された〔Schulman, p. 5.〕。しかしながら完全に制作当時の状態にまで修復されたとは言えず、特に乾式フレスコ技法であるフレスコ・セッコで描かれた部分は元通りにはならなかった。『貢の銭』に描かれていた木々の葉は消失し、キリストがまとっている青色のローブはその輝きを失ってしまっている〔Paoletti & Radke, pp. 230-231.〕。
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