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貨幣史(かへいし)は貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の研究を指す。関連する学術分野としては、貨幣とその形態を研究する貨幣学の他に、経済史をはじめとする歴史学や考古学、文化と貨幣の関わりも研究する文化人類学などがある。 == 概要 == ; 貨幣の起源 貨幣の起源は、市場や貿易の起源とは別個にあるとされる。貨幣の機能には、(1)支払い、(2)価値の尺度、(3)蓄蔵、(4)交換手段があり、いずれか1つに用いられていれば貨幣と見なせる〔ポランニー (1977) 第9章〕。 貨幣の4つの機能は、それぞれ異なる起源を持つ。(1)支払いのための貨幣は、責務の決済を起源とする。賠償、貢物、贈物、宗教的犠牲、納税などがこれにあたる。(2)価値尺度のための貨幣は、物々交換や財政の管理を起源とする。歴史的には単位のみの貨幣も存在してきた。(3)蓄蔵のための貨幣は、財や権力の蓄積を起源とする。食料や家畜、身分を表す財宝などがこれにあたる。(4)交換のための貨幣は、財を入手するための間接的交換を起源とする。売買がこれにあたる。4つの機能をすべて備えた貨幣が用いられるようになるのは、文字を持つ社会が発生した以降となる〔ポランニー (1977) 第9章〕。 ; 貨幣の素材 貨幣の素材には、現在では一般的な金属や紙の他に、さまざまなものが選ばれてきた。地域の伝統や慣習において富と見なされるものが、貨幣として選ばれていた〔栗本 (2013) 第8章〕。穀物や家畜も貨幣となるが、そうした貨幣は消費して減ってしまうと取引に支障が出る。そのため、取引に用いる財に影響が少ない素材として、金属や紙が多く選ばれるようになった。現在知られている最古の硬貨は紀元前7世紀にリュディアで作られたエレクトロン貨、最古の紙幣は1023年から北宋の政府紙幣として流通した交子とされる。特定の素材の価値で国家の貨幣を裏付ける制度として本位制があり、金本位制、銀本位制、金銀複本位制などがある。 貨幣には装飾的、儀礼的、呪術的な素材も見られ、宗教的背景を持つ場合もある。たとえば古代中国ではタカラガイが豊産や死者の安寧と結びつけられて神聖とされ、貝貨となった〔山田 (2000) p17〕。アフリカのドゴン族の神話では貝貨には生きた力があり、取引をする人間の力に対応している。そして市場での貝貨を用いた交換は、言葉の交換に対応すると見なされた〔坂井 (1999) p230〕。 ; 貨幣の使い分け 前述のように貨幣には4つの機能があり、いずれかに用いられていれば貨幣と見なせる。歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせて用いられてきた〔ポランニー (1977) 第9章〕。たとえばバビロニアでは価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどが使い分けられた。中国の漢では賜与や贈与の目的や立場に応じて、金、布帛、銅が厳密に使い分けられた〔柿沼 (2015) p186〕。中世の西ヨーロッパはバンク・マネーとも呼ばれる計算用の貨幣を尺度として支払用の複数の貨幣を管理した〔名城 (2008)〕。日本の江戸時代では石高制のもとで米を価値の尺度として、支払いには主に金、銀、銅を用いた。 身分や性別によって特定の貨幣が使われる場合もある。たとえばロッセル島にはンダップという男性用の貨幣とンコという女性用の貨幣があり、ンダップは23種類、ンコは16種類の異なる価値を備えていた〔湯浅 (1998) p39〕。サモアには女性が生産するトガ財(編みゴザ、ヤシ油等)と男性が生産するオロア財(豚、武器等)があり、交換手段の貨幣が浸透するとオロア財が優先して貨幣で買えるようになった〔山本・山本 (1996)〕。トロブリアンド諸島では、クラ交易に用いるクラ財は貨幣で買えないが、クラ財と交換できる豚やヤムイモは貨幣で買える。このため、女性や若者など貨幣収入を得やすい者がクラ交易への影響を強めた〔Leach (1983)〕。また、15世紀から16世紀のメソアメリカでは食物であるカカオが貨幣としても流通し、アステカではカカオの飲食は貴族、戦士、商人などの階級に限られていた〔コウ (1996)〕。 ; 貨幣と地域 貨幣には地域内での使用と、貿易や地域間の交易での使用があり、内外で異なる貨幣が定められる場合もある。この違いは貨幣が必要となる周期や取引の大小によって決まり、地域内の貨幣は小額面で周期的であり、貿易の貨幣は高額面で非周期的となる。たとえば18世紀のベンガルでは、穀物の先物取引にはルピー銀貨を用い、穀物を地域内の市場で買うには小額取引に適した貝貨が用いられた。さらに、納税と穀物取引では異なるルピー銀貨が用いられた〔黒田 (2014) p81〕。 現在では1国1通貨の制度が普及しており、これは後述のように国際金本位制に起源を持つ。それ以前は、貿易用の貨幣は発行者の国を超えて複数の国や地域で用いられた。たとえば古代ギリシアのドラクマ、中世イスラーム世界のディナールやディルハム、中国の宋銭、貿易銀と呼ばれるラテンアメリカのメキシコドルやオーストリアのマリア・テレジア銀貨がそれにあたる〔黒田 (2014) p17〕。 1国1通貨の制度が普及する以前は、地域内で用いられる地域通貨も多数存在した。たとえば穀物や家畜を用いた各地の物品貨幣や、日本の伊勢神宮の所領を中心とした山田羽書、中国の民間紙幣である銭票などが知られている。地域通貨が政府や民間業者の保証なしに流通する場合は、地元で取引される商品の販売可能性によって成り立っていた。 ; 貨幣の発行 貨幣発行益は、古くから政府や造幣者に注目されてきた。発行した貨幣を用いて財や労働を調達できるほか、貨幣の普及により税の徴収が楽になるという利点がある。また、地金の値段よりも額面が高い貨幣を作れば、差額によってさらに利益は大きい。多くの国家で大量の貨幣が発行され、たとえばペルシアのアケメネス朝やローマ帝国では兵士への支払いに硬貨が多用された〔湯浅 (1998) 第3章〕。貨幣発行益を得るための造幣は、時として貨幣や政府への信用に影響する。たとえば日本の朝廷が発行した皇朝十二銭は、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨が出たため、信用の低下につながった〔東野 (1997) p70〕。 貨幣を発行する造幣権は基本的に政府や領主に管理され、無断で作る私鋳は厳しく取り締まられた。しかし漢の劉邦は、楚との戦争時に民間の造幣を許可し、半両銭が普及する後押しとなった。許可の理由として、小額貨幣の推進、算賦という銭を納める人頭税の推進、民間造幣業者の大地主や任侠を味方に引き入れるためなどの説がある〔柿沼 (2015) p62〕。緊急時においては短期間で地域通貨が発行され、たとえば泉州での飢饉の際の私鋳銭、銅不足によって作られたアーマダバードの鉄貨、世界恐慌が起きたあとのワシントン州の木片などがある〔黒田 (2014) p50〕。1685年のフランス領カナダでは、銀貨不足のためにトランプを切って作ったが通用し、これをアメリカ大陸初の紙幣とする説もある〔植村 (1994) p91〕。 金属貨幣の発行には大量の金属を必要とし、鉱山での過酷な採掘も伝えられている。アテナイのラウレイオン銀山は奴隷の労働としてもっとも過酷と言われ、ペルー副王領のポトシ銀山では、インカ時代の賦役をもとにしたミタ制によって先住民が酷使され、多数が命を落とした〔湯浅 (1998) p265〕。 ; 両替商 含有率や重量がさまざまな貨幣が流通する地域では、両替商の存在が重要とされた。古代ギリシアのポリスにおけるトラペジーテース、中国の宋代の兌房、中世イスラーム世界のサッラーフ、日本の江戸時代の本両替と銭両替などがある。都市には両替市場が設けられたり、大規模な定期市である年市には両替商が滞在した。ヨーロッパの両替商の中には、現在の銀行にあたる業績を行う者も現れた。中世ヨーロッパの両替商が仕事に用いたバンコという台は、銀行を表すバンクの語源ともなった。 ; 貨幣史と学説 グレシャムの法則や、貨幣数量説などの貨幣に関する説は限定的であるか、史実に当てはまらない場合がある。グレシャムの法則は金貨については有効だが、良貨にあたる官銭が悪貨を抑制した中国の銅貨には当てはまらない。また、複数の貨幣が流通して多元的に評価されていると、貨幣の総量を測る意味がなく、貨幣数量説の前提が成立しない〔黒田 (2014) 序章〕。 ; 貨幣の形態・デザイン 硬貨の歴史において、ヨーロッパと中国ではデザインが大きく異なる。ヨーロッパの硬貨は権力者の肖像などの図像を入れているが、中国や日本では中心に穴の空いた硬貨を作った。中国の硬貨は円形方孔といって穴が四角く、これは古代の宇宙観である天円地方の思想にもとづいている。この穴は紐を通して大量の枚数をまとめるのにも活用され、小額面の貨幣を運ぶには便利だった〔柿沼 (2015) p43〕。一方、硬貨に穴がないヨーロッパでは運ぶための財布が発達したとも言われ、アテナイでは一般市民は財布を持たず、小額の硬貨は口に入れて運んだという記録もある〔前沢 (1998) p12〕。イスラーム世界の硬貨は、ヨーロッパから形態を受け継ぎつつ、偶像崇拝を否定するために文字だけを刻印した。 紙幣は、最初の紙幣とされる宋の交子をはじめとして中国や日本では縦長であった。これは文字が縦書きであったことに由来する。ヨーロッパの初期の紙幣は北欧を中心に縦長であり、オーストリア・ハンガリー、ロシア、ポーランド、ブルガリアなどでは19世紀や20世紀まで縦長の紙幣が時折発行されていた。正方形の紙幣としては、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーなどがある。現在では横長の紙幣が一般的となっている〔植村 (1994) p299〕。 貨幣のデザインは発行された時代の芸術とも関連がある。19世紀末から20世紀前半にかけてはアール・ヌーヴォーやアール・デコ様式の紙幣がオーストリア・ハンガリー、ドイツ、フランス、ポーランドなどで発行された。オーストリア・ハンガリーでは、1881年発行の5グルデン札のデザインをグスタフ・クリムトが指導している〔植村 (1994) p142〕。1945年に日本の新紙幣のデザインを公募した際には、審査員として藤田嗣治や杉浦非水が参加した〔植村 (1994) p25〕。 ; 物々交換と貨幣 物々交換において、交換比率を決める尺度として貨幣を用いる場合があった。バーターが効率よく行われるために尺度としての貨幣が役立った〔ポランニー (1977) 第9章〕。 バビロニアの物々交換で土地と物財を交換する場合、まず土地を銀の価値で計り、次にその銀の価値と同じだけの物財をそろえて交換した〔ポランニー (1968) p96〕。また、アムール川流域の山丹交易では物々交換が行われていたが、ウリチやニヴフなどの山丹人が清と取引をする際、現地で使われていない中国の銅貨を尺度としていた。さらに山丹人と日本の取引では、クロテンの毛皮を尺度にして商品の価値を計った〔佐々木 (1996) p210〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「貨幣史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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