|
賈 似道(か じどう、拼音:Jia Sidao, 1213年8月8日(嘉定6年6月28日)〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67頁〕 - 1275年9月(徳佑元年)8月)は、中国の南宋末期の軍人、政治家。字は師憲。宋に仕えた政治家・賈渉の庶子で、母は胡氏。半閑老人、悦生、秋壑と号する。 == 生涯 == === 前半生 === 台州(浙江省台州市臨海市)の人。母の胡氏は賈渉の妾であり、賈似道を生んで間も無く家を追い出される〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、65頁〕。後に出世した賈似道は貧窮する母を迎え入れ、胡氏は斉国夫人に封じられた〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、66頁〕。 1219年に賈渉が淮東制置使に任じられると、おそらく賈似道も父に従って楚州に移住し、賈似道が11歳のときに賈渉は没する〔。賈似道は成人後、賈渉の生前の功績によって籍田令の官職、嘉興の司倉を受領する〔。南宋の皇帝・理宗の寵妃であり、周漢国公主(周館長公主)を産んだ姉の働きかけにより、1238年に科挙の予備試験を免除された賈似道は殿試に及第し、進士に及第する〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、67-68頁〕。 1246年に国境地帯で対モンゴル帝国戦を監督していた孟珙の後任として京湖制置使に任命され、湖北に赴任する。湖北に赴任した賈似道は築城によって国境の防備を固め、1258年に両淮宣撫大使に任じられる。賈似道は前線に身を置きながらも中央政府の宰相と同様の待遇を受け、人事の進退においては朝廷の大臣であっても賈似道の意向を無視することはできなかった〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、70頁〕。 1258年、モンゴル帝国の皇帝(ハーン)モンケは自身が四川に進攻し、弟のクビライをして鄂州(武昌)、将軍ウリヤンカダイを広西から湖南に進め、三方から南宋を攻撃した。賈似道は鄂州の軍事を取り仕切ってクビライの攻撃を防ぎ、1259年には四川の呂文徳と共に、南宋に侵攻して鄂州を包囲したウリヤンカダイを攻撃する。四川でモンケが病没した後、彼の後継者の地位を窺うクビライは北方に帰還し、ウリヤンカダイはクビライが残した兵士を集めて長江を渡り、退却した。1260年3月、賈似道は長江の通過を試みたウリヤンカダイ軍の最後列を攻撃し、モンゴル側からは約170人の死者が出た。賈似道が領地の割譲と貢納を約束して密約を結んだためにモンゴル軍が撤退したとする説が存在するが、密約の存在は疑問視されている〔外山「賈似道」『世界伝記大事典』日本・朝鮮・中国編1巻、443-444頁〕〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、92頁〕。賈似道はモンゴル側の意向を探るために和睦を提案したものの、クビライはこれを受け入れず、結局両者の間に和約は成立しなかったといわれている〔。湖南、江西に侵入したモンゴル軍に対して宋軍は奮戦し、彼らの功績は南宋のほぼ全域の軍事権を掌握する賈似道の元に帰した〔宮崎「南宋末の宰相賈似道」『中国史の名君と宰相』、76-77頁〕。戦後賈似道は国内の情報統制、外部への内情の漏洩を防ぐため、クビライの元から派遣された使者の郝経を投獄する〔。使者の投獄に対してモンゴルの大臣たちはクビライに南宋の攻撃を進言したが、クビライは弟アリクブケとの抗争のためにやむなく中国遠征を延期した〔ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、46-47頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「賈似道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|