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赤井 忠泰(あかい ただやす)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、江戸幕府旗本。 慶長3年に徳川家康の小姓となる。慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍、関ヶ原の戦いでは父とともに東軍として参加。慶長7年大和国山辺郡で1000石を賜る。慶長10年(1605年)に父が没すると家督を継ぎ、自らの領地1000石は弟の公雄に賜った。元和2年(1616年)には、大和国十市郡において2000石を領する。3年(1617年)、大坂の陣で荒廃した四天王寺の普請奉行に片桐貞隆とともに任ぜられ、元和4年(1618年)9月に竣工し、元和9年(1623年)9月に落慶した。寛永11月7月の徳川家光の上洛に随行する。明暦元年74歳で没する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤井忠泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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