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赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年〔Akasaka, Chogi 、メリーランド大学カレッジパーク校、2009年11月8日閲覧。〕〔『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「赤坂長義」の項、日外アソシエーツ、2004年。〕1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家、映画監督、テレビドラマの演出家、著述家、大学教官である。日本映像学会会員。 == 人物・来歴 == 1921年(大正10年)〔〔1月3日、東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる〔『一高時代の橋川文三 - 郷土喪失感情とロマン派体験』、長沢雅春、『白』2号所収、1992年12月。〕。 旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている〔〔『現代思想家論』、中島誠、第三文明社レグルス文庫、1972年、p.123.〕。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった〔「歴代の主な同人」、歴程web 、歴程、2009年11月8日閲覧。〕。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。 戦後1947年(昭和22年)に設立された映画会社・新東宝に入社、助監督を務める。1950年(昭和25年)、赤坂が執筆したストーリーが採用され、島耕二が『君と行くアメリカ航路』として映画化する。井上梅次らの助監督をつとめる傍ら、島が大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)で撮った『十代の性典』の脚本を書く。新東宝でも、井上や内川清一郎、中川信夫らに脚本を提供する。 1955年(昭和30年)、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)が製作した生放送テレビドラマ『日真名氏飛び出す』の演出家に抜擢される。1957年(昭和32年)には、新東宝でも、『角帽と女子大三人娘』で映画監督としてデビューした。 1961年(昭和36年)5月には、新東宝が製作を停止し、同年8月末には倒産するが、赤坂は、東映製作のテレビ映画『ナショナルキッド』の監督へと転進した。その後、1960年代にわたって、テレビ映画、テレビドラマの脚本を多く執筆するが、1968年(昭和43年)に監督したテレビ映画シリーズ『特別捜査本部』を最後に、テレビ界から離れる。 1980年(昭和55年)前後の時期、雑誌『映画芸術』に関わり、執筆する〔『映画芸術』、第331号、1979年12月、あるいは同誌、第332号、1980年2月。〕。このころにはすでに多摩美術大学で教鞭を執っていた。1982年(昭和57年)には日本映像学会第8回大会が同大学で開催され、赤坂はその実行委員長を務めた〔第8回大会 、赤坂長義、日本映像学会、1982年、2009年11月8日閲覧。〕。 1994年(平成6年)6月26日、多摩美術大学在職中に死去した。満73歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤坂長義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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