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赤城山丸(あかぎさんまる)は、三井物産船舶部(後の三井船舶)が1924年(大正13年)に竣工させた日本最初のディーゼルエンジン搭載の航洋商船。貨物船として北米航路に就航、レシプロエンジン搭載の姉妹船との運航実績比較により、ディーゼル船の優れた経済性を実証した。太平洋戦争時には軍隊輸送船として徴用され、1944年(昭和19年)にレイテ島の戦いで強行輸送のため擱座した後、アメリカ軍機の空襲で破壊された。 == 建造 == 第一次世界大戦終結により海運業界・造船界には不況が訪れ、船舶の質の向上が課題となった。最も重視されたのが、ディーゼルエンジンの導入である〔岩重(2011年)、35頁。〕。重油を燃料とするディーゼルエンジンは、当時の船舶に一般的だった石炭燃料のレシプロエンジンに比べて高価であるが、火夫の人件費が削減できた。他形式エンジンで重油燃料を使う場合と比べても燃費が優れ、ボイラーが不要で機関容積も小型なため貨物搭載スペース確保などに有利だった。20世紀初頭に実用化された船舶用ディーゼルエンジンは、出力の向上で1910年代には大型船の主機としても活用され始め、日本でも1917年(大正6年)に海軍給油艦「剣埼」で試験的に採用されていた〔。 三井物産船舶部では、第一次世界大戦中の日米船鉄交換契約の処理で渡米していた北郷七次造船設計課長が、帰途にデンマークの(B&W)を視察し、1920年(大正9年)11月に船舶用ディーゼルエンジン産業の隆盛を報告していた〔三井造船(1953年)、44頁。〕。1921年(大正10年)初頭から三井物産船舶部の一部でディーゼル商船導入についての研究が始まり、当初は慎重だった川村貞次郎船舶部長も次第に有用性を認め、1922年(大正11年)7月に三井物産本店から建造が許可された〔大阪商船三井船舶(1985年)、254-256頁。〕。これを受け、同年9月には、岡本泰造機設計課長および当初からディーゼル船研究を担当してきた川合菊平が、ヨーロッパへ派遣されている〔三井造船(1953年)、45頁。〕。 以上の経緯で三井物産は、1921年に計画していた6400載貨重量トン級の貨物船2隻を設計変更し、軸馬力2000馬力級のディーゼルエンジンを主機とした7000載貨重量トン級貨物船を建造することにした〔。その1番船が本船である。三井物産造船部玉工場で1923年(大正12年)5月12日に起工され、1924年(大正13年)3月20日に進水、艤装を終えて同年7月18日に引き渡された〔三井造船(1953年)、56頁。〕。船名は、「○山丸」という三井物産社船の慣例に倣い「赤城山丸」と命名された〔岩重(2011年)、23頁。〕。日本郵船がイギリスで建造中だったディーゼル貨物船「愛宕丸」より4カ月ほど早い竣工で、日本初の航洋性のあるディーゼルエンジン搭載商船となった〔。 「赤城山丸」の基本設計は、船首楼・船央楼・船尾楼を有する三島型船体で、船央楼に船橋と機関部を有する当時の一般的な貨物船である。前後の甲板に単脚式のマストが立つほか、船央楼直後に門型のデリックポストがある。ディーゼル船なのでレシプロ船のような背の高い煙突が技術的には不要だが、美観上の理由からレシプロ船と同様の細長い形状の煙突を備えている〔。主機のディーゼルエンジンは、マクスウェル商会を介して1923年3月に輸入したB&W製の1800軸馬力機関を搭載した〔。なお、本船でのB&W製ディーゼルエンジンの運用実績が後述のように良好であったことから、三井物産は1926年(大正15年)8月にB&Wとライセンス生産契約を締結している〔三井造船(1953年)、46頁。〕。 姉妹船として、在来型の三連成レシプロエンジンを搭載した「秋葉山丸」が1924年11月に竣工した。計画では同船にも比較試験目的でB&W製以外のディーゼルエンジンを採用するはずであったが、候補となったスルザーもも2000馬力級の適当なディーゼルエンジンを当時販売していなかったため、やむなくレシプロエンジンを搭載した〔。「秋葉山丸」の設計は、船橋直後にもハッチがあるなど機関以外にも若干の差異がある〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤城山丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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