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赤尾兜子[あかお とうし] 赤尾 兜子(あかお とうし、1925年(大正14年)2月28日 - 1981年(昭和56年)3月17日)は、日本の俳人。本名は赤尾俊郎。 == 経歴 == 兵庫県揖保郡網干町新在家(現在の兵庫県姫路市網干区)で材木問屋を営む父・常治と母・とよの8人兄弟の二男として生まれる。網干尋常小学校、兵庫県立龍野中学校を経て、1941年(昭和16年)旧制大阪外語専門学校中国語科へ入学。この頃より俳誌『馬酔木』や『火星』に投句を始めた。同級生には蒙古語科の司馬遼太郎、一年上の印度語科に陳舜臣がいた〔同窓で作家となった陳舜臣、司馬遼太郎の2人とは、兜子が毎日新聞勤務であり著書の連載を扱うこともあったため交流が続いていた。特に司馬遼太郎とは同級生であったため親交が深かった。〕。1944年(昭和19年)太平洋戦争激化の為、この年の9月に繰り上げ卒業し姫路に帰郷した。 1947年(昭和22年)京都大学入学。在学中の1948年(昭和23年)に水谷砕壺により俳誌『太陽系』の同人に推挙された。1949年(昭和24年)京都大学文学部中国文学科卒業。兵庫県庁勤務の後、1950年(昭和25年)毎日新聞編集局へ入社し神戸支局勤務となる。1955年(昭和30年)俳誌『坂』を創刊。高柳重信の俳誌『薔薇』に同人参加。1958年(昭和33年)現代俳句協会会員となり高柳重信らと『俳句評論』を創刊。 1960年(昭和35年)『坂』と船川渉が主宰していた『山系』を統合して俳誌『渦』を創刊し主宰となる。1961年(昭和36年)大阪市へ転勤し、中原恵以と結婚。第9回現代俳句協会賞を受賞〔この選考を巡って現代俳句協会は分裂し、中村草田男を中心に俳人協会が発足した。〕。1969年(昭和44年)大阪芸術大学文芸科の講師となる。1980年(昭和55年)毎日新聞を定年退職。1981年(昭和56年)3月17日、兵庫県神戸市東灘区の阪急電鉄御影駅近くの踏切で鉄道事故に遭い急逝した〔1974年頃より鬱症状に悩まされており、自殺であったとも言われている。〕。享年56。兜子の死後、俳誌『渦』は妻で俳人の赤尾恵以が主宰を継承している。 特定の俳人に師事をせず、俳風においては前衛俳句系俳人として活躍したが、後には伝統俳句へと変化した。代表句に「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」などがある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤尾兜子」の詳細全文を読む
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