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赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。 ==生涯== === 挙兵 === 若い頃の動向については不明だが、京都に向かう途中に禅僧の雪村友梅と出会ったという話が伝わり、長男の範資と次男の貞範が摂津長洲荘(現在の兵庫県尼崎市)の悪党の取り締まりに派遣されたことと、赤松氏の本拠地である播磨佐用庄(現在の兵庫県佐用町)の一部の領主が六波羅探題の家臣であったことから六波羅に勤務していたと推定されている。 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、元弘3年(1333年)1月21日、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵する。初め一族の高田氏が内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。その菩提寺である了宅庵にて自害に追い込む。続いて六波羅探題の命を受けた備前の守護加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦って盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始した。 この後、室山に陣を築いて諸豪族の参集を待った。しばらくの後、白川郷・山田村小部郷・石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。2月11日には早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍得意の野伏り戦を展開し、これを撃退した〔高坂、P11 - P24、濱田、P20 - P30。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松則村」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Akamatsu Norimura 」があります。 スポンサード リンク
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