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赤松持貞 : ウィキペディア日本語版
赤松持貞[あかまつ もちさだ]
赤松 持貞(あかまつ もちさだ、生年不詳 - 応永34年11月13日1427年12月1日))は、室町時代の人物。播磨美作備前守護大名である赤松氏の一族。祖父は赤松則村(円心)の次男赤松貞範。父は貞範の3男の赤松顕則(あきのり)。子に田原家貞(いえさだ)、従甥に赤松貞村がいる。
赤松春日部家第3代当主。室町幕府第4代将軍足利義持より偏諱を受けて持貞と名乗り、義持に側近(近習)として仕えた。
赤松則村には4人の息子がおり、円心の次に長男の赤松範資が継いだのだが、わずか1年で没した。その次に3男の赤松則祐が家督を継いだ。次男の赤松貞範は家督争いに敗れ、子孫は将軍家に近習することで生きながらえていく道を選ぶことになった。前述の赤松春日部家とはこの赤松氏の分家(貞範流)のことを言い、持貞は春日部家の3代目にあたる。
持貞が将軍・義持の側近として文献記録上に登場するのは応永23年(1416年)頃のことである。義持が有力守護大名の子息(細川持元畠山持国山名持豊)と伏見で遊んだ際に同行した義持近習の中に赤松越州(持貞)・富樫兵部大輔(満成)らの名前が見られる(『看聞御記』応永23年10月7日条)。また、『満済准后日記』応永30年6月17日条には義持の「御供近習」として赤松越後守(持貞)の名前が挙げられている。
持貞は義持の側近として主に寺社との交渉などを担当した。例えば応永29年(1422年)に義持が満済に雨乞いを依頼した時、「赤松越後守奉書」によって命令が出されたことが知られている(『満済准后日記』応永29年6月30日条)。こうした奉書は本来は奉行衆の役目であったが、持貞は義持側近としてその業務を行ったことが知られている。更に『満済准后日記』には持貞が満済ら祈祷僧の祈祷巻数(祈祷の回数・経典数の記録)を管理して祈祷の依頼者である義持に報告していたことを示す記事が頻出する。また、義持の評定にも参加していた持貞の意見が採用されたことも確認できる〔森茂暁「赤松持貞小考」(初出:『福岡大学人文論叢』33巻2号(福岡大学、2001年9月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第1章第4節)〕。
応永34年(1427年)、理由は定かではないが足利義持が赤松満祐を追放して寵臣の持貞に3ヶ国の守護職を与えようとする噂が広がった。事実として赤松満祐は守護職継承の認可を得ようと3度も申請したが3度とも義持に握りつぶされたのである。これに立腹した満祐は西洞院の自宅を放火すると、領国の播磨に戻り籠城の準備を開始した。
事態を憂慮した幕臣は管領畠山満家らが中心となって収拾策を模索する。義持が何の咎もない満祐を敵視したのは義持の近習に春日部家の赤松持貞がいるためだと判断した幕臣は、政治的に解決するために、持貞を処分することにした。持貞に課せられた罪状は「義持の妻女との密通」であり、義持が絶対的な信任を置く高橋殿足利義満側室)の密書による告発という形を取らせたのである。これによって持貞は自害に追い込まれたのである。なお、春日部家は持貞の甥になる貞村が継ぐことになった。持貞の嫡男家貞は赤松姓から田原姓へと変えて京を追放され、播磨に逃れた。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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