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赤松政則[あかまつまさのり]
赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。 嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。 == 生涯 ==
=== 生まれ === 享徳4年(1455年)2月19日〔『蔭凉軒日録』延徳4年2月18日条〕、赤松家の第8代当主・赤松満祐の従孫(満佑の弟・義雅の孫。義雅の子・時勝(性存・性尊)の子)として生まれる。当時の赤松家は嘉吉元年(1441年)に室町幕府第6代将軍・足利義教を大伯父・赤松満祐が暗殺するという嘉吉の乱で、幕府軍に攻められて大名家として滅亡していたため、父の時勝と政則は京都建仁寺で養育されていた。政則が生まれる前の年(享徳3年、1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵したが、翌年に山名宗全に討たれている。 政則が生まれて7か月後の10月に父の時勝は死去した。母も早世したとされ、政則は幼少期から不幸な生活を送ったとされる。政則の養育には家臣の浦上則宗が務めて主従苦楽を共にし〔『浦上美作守則宗寿賛』〕、これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となった〔渡邊大門『赤松氏五代』P271〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「赤松政則」の詳細全文を読む
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