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超短波警戒機乙
超短波警戒機乙(ちょうたんぱけいかいき・おつ)は、大日本帝国陸軍が開発した]。 == 来歴 == 1930年代後半、ドイツやイギリスなどの欧米諸国からやや遅れる形で対空レーダーの開発に参加した日本陸軍は、1939年に最初の実用レーダーである超短波警戒機甲の開発に成功した。しかし、同時期に全金属製航空機が世界的に普及した事に伴い、反射波の受信がそれ以前の木製幌布張航空機よりも容易になった事から、陸軍は「道草」とも称されるドップラーレーダーたる超短波警戒機甲の開発・配備と並行して、1941年初頭ごろから、よりオーソドックスなパルスレーダーの開発に着手した〔徳田 pp.126-130〕。 1940年12月、レーダーに関心が高い航空総監兼航空本部長山下奉文中将を団長とする陸軍遣独視察団に、超短波警戒機甲の開発に携わった佐竹金次中佐らも随員として参加。佐竹中佐らはドイツの先進的なレーダーを調査し本国に報告(佐竹中佐らは以降もドイツに滞在し、後述のウルツブルグレーダーを持ち帰る)、それを受けて陸軍はパルス波を用いる新レーダー(パルスレーダー)を開発することとし、1941年初めにその研究を開始した。同年秋には試作品が早くも完成し、10月から開始した試験結果も良好であったため、試作第2号機を千葉県銚子市に設置することとし直ちに工事を始め1942年6月に完了となっている。なお、陸軍科学研究所が日本電気に試作させたパルスレーダー実験セットが、1941年7月に神奈川県川崎市生田から送信し東京都立川市(立川陸軍飛行場)上空の航空機を探知することに成功していることから、この研究試作の高出力化を図って開発試作とした恐れがある〔徳田 p.132〕。 なお、超短波警戒機乙の開発に携わった日本電気の技術陣は、後に海軍のパルスレーダーの開発にも協力しており、海軍は1941年9月初旬、試作機をもって横須賀市野比海岸で対航空機実験が行い、中型攻撃機を距離約100kmで探知することに成功している〔徳田 pp.91-93〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「超短波警戒機乙」の詳細全文を読む
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