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越ノ海東治郎[こしのうみ とうじろう]
越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月23日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 == 来歴 == 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。 1933年9月30日に巡業先である山口県萩市で、越ノ海と初土俵同期の沖ツ海福雄が、師匠・若藤の娘と婚約すると同時に部屋を継承することが決定した。沖ツ海福雄は越ノ海より年下だが、この直前の場所で東関脇に位置して7勝3敗1分と好成績を挙げており、将来の大関候補だった。祝杯を上げるために沖ツ海福雄が調理したフグを食べたが、調理した張本人である沖ツ海福雄が中毒症状を起こしてその場で即死したため、越ノ海が部屋頭として若藤部屋を牽引する立場となった。 その後、師匠・上ヶ汐福治郎の長女と結婚して婿養子に入り、1935年に師匠が亡くなると1936年に二枚鑑札で年寄・若藤を襲名、若藤部屋を継承した。1937年1月場所において11戦全敗によって幕下陥落が決定的となったことで現役を引退して年寄専務となり、1971年に停年退職した。この間、1948年には部屋を閉鎖して伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越ノ海東治郎」の詳細全文を読む
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