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越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。 == 沿革 == 7世紀末の689年-692年(持統3-6年)頃高志国(こしのくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後の国印製作時に越前・越中・越後の表記に定まったと推定されている。 3国に分割された時の「越前国」の領域は、現在の石川県と、福井県の北部を含み、後の敦賀郡、丹生郡、足羽郡、大野郡、坂井郡、江沼郡、加賀郡、羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の十一郡にわたる広大な面積であった。 養老2年(718年)5月2日に、現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を能登国として分立させた。 弘仁14年(823年)3月1日に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて加賀国を建てた。これ以後領域に変更はなく、現在の福井県のうち南部 (若狭国)を除く部分を範囲とした。残った郡の編成には以後も変遷がある。 京都や奈良から近すぎず遠すぎずの大国でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。新田義貞、朝倉義景、柴田勝家が挙げられ、主将としてではないが大谷吉継、この地をめざして逃れる途上で殺された藤原仲麻呂などもこれに準じる。 継体天皇は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる志貴皇子(天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越前国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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