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越後福嶋騒動(えちごふくしまそうどう)は、江戸時代前期に起こった越後高田藩(福嶋藩)の堀氏によるお家騒動である。 == 経緯 == === 発端 === 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命令で堀秀治は越前北之庄から越後春日山45万石に移封された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に味方した秀治は所領を安堵され、秀治は春日山藩の藩主となる。 秀治は慶長11年(1606年)に死去し、嫡男の堀忠俊が家督を相続する。慶長12年(1607年)、忠俊は春日山城を廃して福嶋城に移り、福嶋藩の藩主となった。 忠俊は家督相続時は11歳の少年であり、そのために藩政は家老の堀直政(三条藩主)が担当した。しかし直政は慶長13年(1608年)2月に死去する。すると藩政の実権をめぐって直政の後を継いだ堀直清と、坂戸藩主の堀直寄(直清の異母弟)が争い始める(彼ら自身の家督相続の問題もあったとされる)。 慶長15年(1610年)2月、直清は忠俊に対して讒言し、直寄の追放を求めた。忠俊はこれに応じて直寄を追放したが、直寄は2月24日に駿府城の徳川家康に対して、直清の専横と横暴を訴えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越後福嶋騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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