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越智家栄[おち いえひで]
越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。 == 生涯 ==
=== 筒井氏との合戦 === 永享11年(1439年)、父の維通は大和永享の乱の首謀者として箸尾為憲(次郎左衛門と同一人物か)、大覚寺門跡義昭と共に室町幕府に討たれた。幼い春童丸(家栄)に変わって楢原氏(実名不詳)が越智氏を継いだが、嘉吉元年(1441年)7月に春童丸が楢原氏を破って当主になった。背景には、この年6月に6代将軍足利義教が暗殺され(嘉吉の乱)、それに伴い復権した河内守護畠山持国の後押しがあった。 同年、先の戦で幕府側についた筒井氏に内訌が起こり、摂津河上五ヶ関務代官職を巡って筒井順弘と弟の成身院光宣、筒井順永が対立、順弘が光宣派に敗れると家栄は順弘を援助して筒井城を奪回、惣領に就けたが、嘉吉3年(1443年)に順弘が殺害されると河上五ヶ関の直接支配を狙った大乗院門跡経覚、古市胤仙、豊田頼英、小泉重弘らと組んで光宣を筒井城に封じ込め、管領となった畠山持国の後援もあって大和は経覚派の支配下になった。 ところが、文安2年(1445年)に光宣が反撃、経覚派が築いた鬼薗山城を落として五ヶ関代官職を獲得、以降一進一退の中、享徳2年(1453年)の古市胤仙の急死をきっかけに両派は翌年に和解した。長禄2年(1458年)に赤松氏遺臣の後南朝襲撃及び神璽の奪還に協力している(長禄の変)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越智家栄」の詳細全文を読む
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