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趙丕廉 : ウィキペディア日本語版
趙丕廉[ちょう ひれん]


趙 丕廉(ちょう ひれん) は中華民国の政治家・教育者。閻錫山率いる山西派の有力幹部の1人である。芷青、別号は麓台
== 事跡 ==

=== 山西派への加入 ===
1909年宣統元年)、乙酉科抜貢となる。山西大学堂入学後に、秘密裏に中国同盟会に加入した。辛亥革命が勃発すると、趙丕廉も革命派として蜂起に参加している。
中華民国成立後は、同郷の山西派指導者・閻錫山により山西軍政府秘書長に起用された。以後、山西都督府参議、国民党山西省党部理事を歴任した。1914年民国3年)、第二革命(二次革命)失敗の影響もあり、安徽省に逃れ、省教育庁で官職に就く。袁世凱死後の1916年(民国5年)に山西省に戻り、県長等を歴任した後に山西省立国民師範学校校長に就任、さらに教育学院を創設した。
1926年(民国15年)秋、山西教育会長として趙丕廉は上海へ赴いた。実はこのときの趙は閻錫山の密命を受けており、同時に武漢へ赴いて国民政府と閻の易幟につき交渉している。易幟後、趙丕廉は山西省政府農工庁庁長に任ぜられ、あわせて国民革命軍第3集団軍政治部主任に任ぜられた。1928年(民国17年)3月、閻が国民政府内政部部長に任ぜられると、あわせて趙丕廉も内政部次長に任ぜられる。同年10月、山西派で同僚の趙戴文が国民政府内政部部長代理となり、引き続き趙丕廉がこれを補佐した(翌年1月まで)。同年、趙丕廉は賑務委員会常務委員となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「趙丕廉」の詳細全文を読む



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