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趙子立[ちょう しりつ]
趙 子立(ちょう しりつ)は中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。字は一峰。国民革命軍の軍人で日中戦争で主に活躍、国共内戦の最終盤で中華人民共和国へと転じた。 == 事績 ==
=== 日中戦争から国共内戦へ === 18歳の時に西北軍(国民軍)に兵士として加入する。1927年(民国16年)冬、南京に赴き、中央陸軍軍官学校第6期工兵科に入学した。1929年(民国18年)に卒業し、国民革命軍に入隊、数年後に士官にまで上りつめている。1935年(民国24年)、陸軍大学で学び、翌年に陸軍工兵少校、1937年(民国26年)5月に工兵中校となった。〔徐主編(2007)、2263頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1670-1671頁。〕 日中戦争(抗日戦争)勃発後、第52軍で中校連絡参謀となり、まもなく上校参謀に昇進した。その後、陸軍大学に復学して、1938年(民国27年)7月に同大学正則班を第14期生として卒業している。同年8月、第1兵団総部少将高級参謀兼作戦科長に任ぜられ、武漢防衛戦や贛北戦役に参戦した。1939年(民国28年)、第9戦区司令長官部(長官:薛岳)参謀処少将副処長兼作戦科長となり、さらに参謀処処長、参謀長へと昇進している。1944年(民国33年)夏、薛岳が第4次長沙会戦で日本軍に敗北、長沙を失陥した。この際に、敗戦の責任を問われて趙子立は収監、重慶へ移送されるが、最終的には無罪となる。〔〔劉国銘主編(2005)、1671頁。〕 釈放後の趙子立は陸軍大学に戻り、将官班第1期で訓練を受けた。1945年(民国34年)1月、将官班を卒業し、翌月には第5戦区司令長官部参謀処処長に任ぜられ、まもなく参謀長に昇進している。日中戦争終結後の同年12月、鄭州綏靖公署(主任:劉峙)中将参謀長に任命された。しかし翌1946年(民国35年)9月、鄭州綏靖公署所属の整編第3師が中国人民解放軍に定陶で殲滅された責めを負い、劉と趙は罷免されてしまう。〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙子立」の詳細全文を読む
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