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趙 巧雲(ちょう こううん、1110年 - 1162年以前)は、北宋の徽宗の第16皇女(夭逝を除いて第7皇女)。 == 経歴 == 永嘉郡君喬氏(後に才人となった。喬貴妃とは別人)の娘として生まれた。大観4年(1110年)春に生まれ、7月8日に顕福公主の位を授けられた。政和3年(1113年)閏4月、顕福帝姫の位を改授された。宣和7年(1125年)8月、顕徳帝姫を再授され、劉文彦に降嫁した。 靖康の変後、金に連行され、金の天会6年(1128年)8月に洗衣院に下された。以後の動静は不明であるが、『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃までに金で没していたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙巧雲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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