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趙彦深 趙彦深(趙彥深、ちょう げんしん、507年 - 576年)は、中国の東魏から北斉にかけての人物。本貫は南陽郡宛県。 == 経歴 == 趙奉伯と傅氏のあいだの子として生まれた。幼いころに父を失い、貧しい生活のなかで母に孝事した。はじめ尚書令司馬子如の賤客となり、書写をつとめた。子如は彦深の仕事に誤りがないのに感心して、官庁に入れるために衣服を与えた。書令史に任用されて、1月あまりで正令史となった。 高歓が晋陽にいたとき、2人の史を求めると、子如は彦深を推挙した。後に彦深は子如の下で開府参軍をつとめ、水部郎の位を受けた。高澄が尚書令となって人事にあたると、彦深は滄州別駕として出向を命じられたが、固辞して行かなかった。子如が高歓に彦深を大丞相功曹参軍として任用するよう推薦し、高歓の発行する文書の多くは彦深の手で書かれた。彦深の慎重な仕事ぶりは高歓に高く評価された。 武定5年(547年)1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。7年(549年)、潁川攻撃の軍に参加して、西魏の王思政を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た。 高洋が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の天保元年(550年)、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。河清元年(562年)、爵位は安楽公に進んだ。2年(563年)、尚書左僕射となった。斉州大中正・監国史をつとめた。天統3年(567年)、尚書令に任じられた。特進となり、宜陽王に封じられた。武平2年(571年)、司空の位を受けた。祖珽とのあいだが険悪となり、西兗州刺史として出された。4年(573年)、召還されてまた司空となり、司徒に転じた。母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。7年(576年)6月、突然の病のため死去した。享年は70。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙彦深」の詳細全文を読む
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