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趙徽(ちょうき、生没年不詳)は、遼(契丹)の政治家。本貫は南京析津府。 == 経歴 == 重熙5年(1036年)、進士甲科に及第した。大理正に累進した。 清寧2年(1056年)、銅州の民が儒仏道三教を排斥していたため、趙徽は実態を調査して奏上した。激務の職を歴任して、有能なことで知られた。翰林学士承旨に累進した。咸雍初年、度支使となった。3年(1057年)、参知政事に任じられた。8年(1062年)、武定軍節度使として出向した。任期を終えると、軍民が留任を請願した。 太康元年(1075年)、同知枢密院事となり、南府宰相・門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。2年(1076年)、致仕した。死去すると、中書令の位を追贈された。諡は文憲といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙徽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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