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趙 東潤(ちょう とうじゅん)は、李氏朝鮮末期の政治家、大韓帝国軍及び大日本帝国陸軍の軍人。 == 生涯 == 光緒13年(1887年)に庭試文科に丙科で合格して以降は、摠禦営軍司馬をはじめとして、建陽2年(1897年)に大韓帝国軍参将昇進と同時に親衛第3隊長となり、元帥府軍務局長・陸軍法院長・陸軍武官学校校長・侍従武官長を務める等、武官としての職務を歴任した。 光武8年(1904年)に勲二等太極章を授与され、翌年には大日本帝国陸軍を視察、日本政府から勲一等旭日大綬章を授与されて、日本と深い関わりを持つようになり、一進会にも加入した。 日韓併合条約締結後の隆熙4年(1910年)10月16日には、朝鮮貴族として男爵に列せられた。 併合以降は、尹徳栄等とともに李垠王世子と方子妃の婚約締結に尽力し、李太王の葬儀の際は副祭官を務めた。 大正9年(1920年)4月26日、勅令第118号が発せられた事により、「朝鮮軍人」の陸軍副将から大日本帝国陸軍中将に転じた。 晩年、趙男爵家は家政破綻の危機に陥った。当時の朝鮮軍司令官菊池慎之助は趙男爵家の境遇に深く同情し、朝鮮総督の斎藤実に相談して、財産整理委員が設けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙東潤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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