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趙 栩(ちょう く、1106年 - ?)は、北宋の徽宗の七男(夭逝を除くと第5皇子)。 == 経歴 == 美人喬氏(喬貴妃)の次男として生まれた。同母兄に趙杞、同母弟に趙材、趙朴、趙樾がいる。 崇寧5年(1106年)2月に生まれ、翌年、魯国公の位を授けられた。大観2年(1108年)正月、安康郡王の位を改授された。政和年間に済王を再授された。 靖康の変の際、欽宗の使節として3度金の軍営へ行き、講和を求めた。講和が沙汰やみとなった後、金に連行された。『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで趙栩は金で健在であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙栩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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