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趙爾豊[ちょう じほう]
趙 爾豊(ちょう じほう)は清末の政治家。字は季和。奉天省鉄嶺県(現在の遼寧省鉄嶺市)の人で、漢軍正藍旗に属した。清末に四川省、チベット等で地方政府長官級の各職を務めた人物である。兄は、清末民初の政治家である趙爾巽。 == 事跡 == 1875年(光緒元年)、郷試を受けたが及第せず、誊録(浄書係の旧称)に任じられた。その後、山西省で官吏としての経歴を開始したが、1888年(光緒14年)、当時山西省に赴任していた錫良に見出され、以後、錫良の引き立てにより各職を歴任する。特に、1901年(光緒27年)からは、河道総督となった錫良の下で、趙爾豊が河川工事の責任者を務め、実績を積んでいる。 1903年(光緒29年)、四川総督となった錫良に随従して趙爾豊も四川入りし、会党や土司の反乱鎮圧に従事した。1906年(光緒32年)、清朝から督弁川滇辺務大臣に任命される。そして1907年(光緒33年)、錫良の後任として、護理四川総督に任じられた。1908年(光緒34年)5月、駐蔵大臣兼領辺務大臣に任じられ、さらに正式に四川総督に就任した。1909年(宣統元年)には、軍を率いてチベット入りしたが、この年に駐蔵大臣等を辞任し、川滇辺務大臣に専任となる。 1911年(宣統3年)4月、趙爾豊は署四川総督に復帰し、四川省で発生した鉄道保護運動の鎮圧に奔走した。しかし、武昌起義が勃発すると、四川省でも鉄道保護運動が革命派の蜂起と結びついていく。鎮圧どころか、自己の身が危うくなった趙は、四川咨議局議長蒲殿俊に政権を委ねて下野する。 しかし、鉄道保護運動鎮圧で革命派などから怨みを買い、さらに反動的蜂起を疑われていた趙は、同年12月、蒲殿俊を後継した四川都督尹昌衡により逮捕され、成都で公開処刑された。享年67。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙爾豊」の詳細全文を読む
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