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趙衰(ちょうし、? - 紀元前622年)は、中国春秋時代の晋の政治家。姓は贏、氏は趙、諱は衰、字は子余、諡は成。趙成子とも呼ばれる。大夫であった趙夙の弟で、戦国七雄の趙の祖。 == 生涯 == === 出奔 === 献公の公子のうち、占いで吉と出た重耳(後の文公)に仕えた。 紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳に従い、その後、19年に渡って諸国を放浪した。狄での亡命生活中に叔隗(重耳の妾となった季隗の姉)を妻とした。叔隗は後の趙の礎を築く趙盾を生んだ。 紀元前645年、晋で重耳の弟である恵公が即位した。恵公が声明のある重耳の帰国を恐れて刺客を送ってきたため、重耳とともに斉へ逃れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙衰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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