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趙 重応(ちょう じゅうおう)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家。現在の大韓民国では、丁未七賊、庚戌国賊及び親日派の一人とされている。 == 生涯 == 漢城の少論派両班の家に生まれる。幼少期から儒教を学び、光緒4年(1878年)12月に成均館中学東斎に入学し、館学儒生として2年間学んだ。 光緒6年(1880年)に初試に合格し、殿上に昇進した後は、光緒9年(1883年)10月から西北辺界調査委員に任命され、シベリア・満州・外蒙古等の地を調査した。光緒11年(1885年)に帰国した後は、成均館に戻り北防南開論を主張したが、反日勢力である驪興閔氏の弾劾を受けて、全羅道宝城に流配された。光緒16年(1890年)に特赦されてからは、再び成均館に戻った。 光緒20年(1894年)に日清戦争が勃発する直前に、李垠の随行員として日本へ渡った後に外務衙門の参議となり、この頃から日本と親密な関係を築くようになる。 開国504年(1895年)の乙未事変の際は、法部刑事局長として閔妃を廃妃とするなどの事後処理にあたった。 建陽元年(1896年)の露館播遷により、2年後の光武2年(1898年)に金弘集内閣が崩壊すると、職責を奪われ、日本での亡命を余儀なくされた。その間、近代的な農業技術を日本人技術者から伝授され、政治学と法律学を学んだ後、光武10年(1906年)8月に特赦されて帰国した。 光武10年(1906年)10月には統監府嘱託に任命され、農事問題を担当した後は、光武11年(1907年)5月に李完用内閣の法部大臣に任命されると同時に、刑法改定総裁も務めた。また、同年7月24日に行なわれた第三次日韓協約の締結に尽力した事から、8月には勲二等太極章を授与され、正二品資憲大夫に昇任した。 隆熙2年(1908年)5月には農商工部大臣に任ぜられ、従一品崇政大夫と宮中警衛監督も兼任した。 隆熙4年(1910年)8月には李花大綬章を授与され、日韓併合条約の締結にも大きく貢献した。この功により同年10月16日には、朝鮮貴族として子爵に列せられ、朝鮮総督府中枢院の顧問を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「趙重応」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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