翻訳と辞書 |
足利政知[あしかが まさとも]
足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。 == 生涯 ==
=== 関東下向 === 永享7年(1435年)、6代将軍足利義教の次男として生まれる。義政や義視より年上であるが弟とされているのは、義政・義視の母が足利将軍家と代々婚姻を結んでいた公家の日野家出身であったためとされる。幼少期から僧として育てられ、天龍寺香厳院主となり清久(せいきゅう)と名乗ったが、弟の義政の命により長禄元年(1457年)12月19日に還俗、12月24日に京都を出立、一旦近江園城寺に止まり翌長禄2年(1458年)に改めて関東へ出発した(この際に義政からの偏諱を受けて「政知」と名乗った〔兄(政知)が弟(義政)から偏諱を受けた形になっているが、これは法体であった清久(政知)が還俗した際に、初めて元服したからであり(それまで清久は俗諱を持ち得なかった為、元服の際に将軍の偏諱を受けた)矛盾はない。〕)。 補佐役である関東執事・渋川義鏡と上杉教朝を連れて幕府公認の鎌倉公方として派遣されるが、享徳の乱を起こして幕府と敵対状態にあった古河公方足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、6月頃に伊豆堀越に逗留した。義政は政知の派遣と前後して奥羽・甲斐・信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命令、政知を中心とした大規模な成氏討伐計画を進めていたが、関東出兵を命じられていた越前・尾張・遠江守護斯波義敏が義政の命令に従わず内紛(長禄合戦)鎮圧のため越前に向かい、翌長禄3年(1459年)5月に義政の怒りを買い更迭されたため斯波軍の出陣は中止、10月の太田庄の戦いで関東の幕府軍が成氏軍に敗北したため、成氏討伐計画が失敗したばかりか諸大名の信用も失い、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった〔神奈川県、P921 - P937、静岡県、P462 - P467、石田、P144 - P157。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利政知」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|