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足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤〔尊氏の庶長子(長男)とする説もあるが、竹若丸に次いで次男であったとされる。〕。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。 == 生涯 == === 出自・幼少期 === 父は足利尊氏。母は側室の越前局で、生年は嘉暦2年(1327年)とする『足利将軍家系図』の説が最も根強いとされる〔 瀬野精一郎 著『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.1〕。 直冬の母である越前局に関しては『太平記』に「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ越前ノ局ト申ス女房ノ腹ニ出来タリシ人トテ」とあるのが唯一のものである〔 瀬野、p.2〕。つまり若い頃の尊氏が越前局という出自の分からない女性の所へ忍び通って生ませた子であるとされる〔。幼名は新熊野(いまくまの)と号した〔『尊卑分脈』〕。 幼少時は実父である尊氏に認知されず、相模鎌倉の東勝寺(神奈川県鎌倉市)において喝食となる〔 瀬野、p.4〕。東勝寺でおける生活態度は明らかではないが、後年の行状から僧侶として修行に専念していたとは考えられず、問題児であったとされている〔。 『太平記』によれば興国6年/貞和元年(1345年)頃に還俗し〔 瀬野、p.5〕、東勝寺の僧侶である円林に伴われて上洛した〔 瀬野、p.6〕。この時、人を介して密かに尊氏に父子としての対面を求めたが、尊氏はこれを許さなかった〔。そのため当時、朝廷や武家の間に出入りして学問の講義をしていた独清軒玄慧法印の所で勉強しながら、京都でのわび住まいをしていた〔。 独清軒玄慧法印は直冬を見所があると思い、尊氏の弟である直義に相談した〔。直義はその紹介を受けて直冬と面会して引き取ったが、尊氏からは父子としての対面は許されなかった〔。当時、直義には子が無かったため、直義の養子となり、時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る〔。『師守記』には康永3年(興国5年/1344年)6月17日条には「今日左兵衛督直義朝臣子息、実将軍子息也、学問始」という記述があり〔『大日本史料』第6編8冊287頁〕、同年の段階では既に直義の養子になっていたことが分かる。しかし学問始などは幼年期に行なうものであり、当時18歳だった直冬とは考えにくい。田辺久子は直冬の異母弟・基氏の事と推測している。基氏は直義の猶子になっているし、直冬が上洛したのはこの翌年のためという事情もある〔〔なお、庶子と推定される尊氏の七女(貞和3年10月14日没、法号:了清)も直冬と同様に直義の養女となりその邸宅で没した(『師守記』)という。〕。 だが、その後も数年は尊氏との対面は許されずに認知されていなかった〔。また、『太平記』(巻32)によれば、直冬は「継母の讒」によって数年にわたって諸所を漂泊しなければならなかったとする記述があるが、これは尊氏の正室である赤橋登子の讒言によって直冬をはじめとする庶子が排除されていたことを指すとされている〔谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」 芥川龍男編『日本中世の史的展開』(文献出版、1997年)所収〕。 直冬の確実な初見史料は、貞和4年/正平3年(1348年)4月16日の足利直義の書状である〔 瀬野、p.7〕。少なくともこれ以前には直義の養子になっていたと推測される〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利直冬」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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