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足利義根[あしかが よしね]
足利 義根(あしかが よしね/よしもと〔阿南市立阿波公方民俗資料館内掲示の系図内〕)は、江戸時代後期の阿波国徳島藩士。平島公方9代。8代平島義宜の次男。脱藩前の石高は1190石。 == 経歴 == 宝暦12年(1762年)に兄の義智が家督を継ぐ前に早世したので、家督を継ぐ。学問を好み漢詩に長けていた。京より儒学者の島津華山を招聘し、平島館の屋敷内に栖龍閣と称する家屋を与え、一族家臣、近郷の同好の士を集め、華山に師事し、義根の師匠として教育を依頼した。義根は学問を好み、文才に長け、徳島藩の儒学者那波魯堂や多くの文人、墨客、高僧、名士らと交わり、京にも上り公家や文人らと交流を重ねた。著書に『栖龍閣詩集』(天明6年1786年頃発行、原本は阿南市有形文化財・阿波公方民俗資料館蔵)がある。島津華山の養子朝彦梁が編纂を手伝い、京に居を定めた時も従っている。 文化2年(1805年)、多くの文人らが出入りするため、出費が何かと多く、藩主蜂須賀治昭に増禄を願い出たが、父の義宜の頃に950石加増された〔『姓氏家系大辞典 第3巻』参照〕こともあってか容れられず、蜂須賀家から離反して阿波の地を去り、紀州から京へと入り、足利姓に復した。紀州徳川家からの援助があったと伝えられ、京に住した平島公方家には、紀州徳川家から毎年200両の援助〔阿波公方民俗資料館蔵・系図の写しには、紀州より年分金100円とある。〕があり、明治30年頃まで援助が続いた。また、等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいた。 文政9年10月8日、北野七本松(現在の一条七本松)にあった崇禅寺にて卒去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利義根」の詳細全文を読む
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