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足利義詮[あしかが よしあきら]
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男〔足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。〕。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。 == 生涯 ==
=== 幼少時から将軍就任まで === 元弘3年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。 高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。 尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。正平6年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳、光明、崇光天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353年)6月、正平10年(1355年)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利義詮」の詳細全文を読む
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