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足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)は、室町時代後期の武将。初代堀越公方の足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる〔近世後期に高松松平家が編纂した『歴朝要紀』は茶々丸の名を政綱とするが、その出典・根拠は明らかでない。〕。 == 略歴 == 足利政知の子として生まれ、異母弟に室町幕府11代将軍・足利義澄、潤童子などがいる。 嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされた。一説には、潤童子の実母(茶々丸にとっては継母)の円満院が政知に讒言したためであるという。執事の上杉政憲は政知による茶々丸の廃嫡を諌めたが聞き入れられず、自害させられたという。延徳3年(1491年)4月の政知死後は継母の円満院に虐待されるも、7月に牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺して、事実上の公方となった。 しかし、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を斬殺するなどしたことから、旧臣の支持を失い、内紛は伊豆国内に波及〔堀越公方の基盤が伊豆国北部にあったのに対して、茶々丸は伊勢宗瑞の侵攻後も伊豆国中南部の在地領主の支援を受けて抵抗していることから、政知没後の混乱を潤童子を推す堀越公方家臣団と茶々丸を推す伊豆の在地領主、更にその背後にいたとみられる山内上杉家との対立とみる説もある(杉山一弥「堀越公方の存立基盤」『國學院大學紀要』46号、2008年)。〕。明応2年(1493年)10月、興国寺城にいた伊勢宗瑞(北条早雲)が混乱に乗じ、鈴木繁宗や松下三郎右衛門尉、大見の三人衆ら伊豆の豪族を従えながら伊豆に攻め入ると、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者と見なされ、求心力が低下した堀越公方はたちまちのうちに滅亡した。 従来説では、この時点で宗瑞に敵せず、伊豆韮山の願成就院で自刃したとされていたが、実際は、明応4年(1495年)宗瑞によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが近年の研究で明らかとなっている〔この頃、甲斐国では守護武田宗家において内訌が生じており、一方の当主武田信昌・信恵方が駿河今川氏・伊勢氏と、対する信縄方が山内上杉氏と結んでいた。茶々丸の大島退去後に今川氏・伊勢氏は甲斐へ侵攻しており、明応5年(1496年)に茶々丸は武蔵から甲斐吉田の正覚庵(富士吉田市上吉田)に移り、駿河御厨地方へ進出したといわれ(ともに『勝山記』に拠る)、信縄方の勢力を結集して伊勢氏に対抗したとも考えられている。また、明応7年(1498年)8月25日には甲斐・駿河地方をはじめ太平洋岸一帯に被害を及ぼした明応の大地震が発生し、地震後に武田宗家の内訌が一時的に和睦に至っているが、8月中には茶々丸が伊勢氏方に引き渡されて切腹しており(『王代記』)、明応7年の武田宗家の和睦に際して、信縄方と結ぶ駿河今川氏・伊勢氏の条件に茶々丸引き渡しがあったとも考えられている(黒田基樹「武田宗家の内訌」『山梨県史 通史編2 中世』第七章第一節一)。〕。 明応7年(1498年)8月、甲斐国(伊豆深根城とも)で宗瑞に捕捉され、自害した〔茶々丸の滅亡地を伊豆・深根城とする説では、伊勢氏は茶々丸討伐のための準備を進めていたが、明応の大地震と津波による混乱が自軍に不利になることを恐れた宗瑞が動員できる兵力で伊豆に奇襲を行って同月のうちに茶々丸を討ち取ったとする(家永遵嗣「北条早雲の伊豆征服」『伊豆の郷土研究』24集、1999年)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足利茶々丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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