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足立 繁太郎(あだち しげたろう、万延元年(1860年)12月24日 - 昭和19年(1944年))は日本の政治家。元境町会議員。鳥取県西伯郡中野村の人〔『島根鳥取名士列伝、下』百五十七〕。 元日本商工会議所会頭足立正の父。 == 経歴 == 足立家の家業は酒造りで、江戸時代には大庄屋を務め、苗字帯刀を許された豪家だった。〔『昭和 戦前財界人名大事典 第三巻 昭和9年』620頁に「當家は舊因州藩の大庄屋にして苗字帯刀を許されたる豪家なり」とある。士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した(『境港市史 上巻』336頁)。足立正の『私の履歴書』によれば「家業は酒造りであったが、かなりの田畑をもっていて耕作は小作人にまかせていた。代々大庄屋をつとめていたので、平民ではあったが、名字帯刀を許された郷士の家柄であった。そんなだから家には武芸をとうとぶ気風がのこっていて…」という〕。 父徹造は馬術の達人であり、鳥取藩つきの高名な先生について腕をみがいた。繁太郎は長男の正に剣道を教えた。〔足立正は『私の履歴書』に「家にはつねに駿馬が二頭飼ってあった。その影響をうけて父も馬術が上手だったが、むしろ父は剣道の腕のほうがたしかだったようだ。…小学校2年のときにはすでに父から直接、剣道の手ほどきをうけた。」と書いている〕。 繁太郎は多年にわたり境郵便局長をつとめたため、“郵便足立”とよばれていた。 日本の製紙王と呼ばれた藤原銀次郎の妻の実家(由井家)と足立家は隣同士であり、2人が結ばれたのは繁太郎の仲介によるものであった〔足立正は『私の履歴書』に「境の私の生家と藤原銀次郎さんの奥さんの実家とは、実は隣同士で、親類同様に親しくおつきあいをしていた。そんなわけだから、私の家へ藤原さんから奥さんの身もとしらべにきたときには、父はタイコ判をおしてあげたり、それが機縁でおふたりが結ばれたのちは、藤原さん自身もちょいちょい私の家に遊びに見えた。」と書いている〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足立繁太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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