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足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。 == 平安・鎌倉・室町時代 == 〔『平家物語』(13世紀成立)巻四に、「足軽共4、500人先立て」とあり、平安末期である源平合戦期にも見られる。〕〔執筆 棟方武城 監修 笹間良彦 『すぐわかる 日本の甲冑・武具』 東京美術 2012年 p.61.平安末期には存在し、当時は直接合戦には参加せず、市中への放火・敵陣の撹乱を行い、南北朝・室町期に至ってもその役割は同じだった。〕、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった〔当時の戦闘は、武士領主層およびその一族家人らの各個戦闘が主で、足軽の働きは副次的なものだった。参考・『世界大百科事典 1 ア-アン』 平凡社 初版1972年(73年版) p.172.〕〔鎌倉期の軍記物である『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』に当時の足軽の様子が記述されている。〕。 南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め〔武器としての槍が発明されたのは南北朝初期とされ、これにより弓矢中心の騎兵戦から、槍・薙刀中心の徒歩斬撃戦が普及した事で、兵士個人の武芸より兵数がものをいうようになり、兵集力が重要となって、「野伏懸」という名の足軽徴発が行われ、傭兵軍団が主流となる。参考・今谷明 『日本の歴史 戦国の世』 岩波ジュニア新書 2000年 ISBN 4-00-500335-4 p.54.〕、足軽の活躍の場は土一揆・国一揆にも広まった〔南北朝期に農民が団結するようになって、武力による自衛が行われた。参考・『世界大百科事典 1 ア-アン』 平凡社 p.172.〕〔「南北朝期の戦闘を悪党によるものとすれば、応仁・文明の大乱は足軽の戦争であったと要約できる」と今谷明は著書『日本の歴史 戦国の世』 2000年 p.52において述べている。〕。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、〔「出身が没落農民や浮浪者であり、規律も道徳も欠けている者が多かった」と鈴木旭は著書『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 ISBN 4-537-25195-6 p.78において指摘している。〕でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった〔『樵談治要』において一条兼良は「この度初めて出で来たれる足軽は超過したる悪党なり。そのゆえは洛中洛外の諸社諸寺五山十刹公家門跡の滅亡は彼らが所行なり」として、京荒廃の原因は足軽であると批判している。〕。 応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という〔桜井英治 『日本の歴史12 室町人の精神』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268912-X p.310.〕。一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。 また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った〔桜井英治 『日本の歴史12 室町人の精神』2001年著 p.310.〕。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用する〔鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 日本文芸社 2004年 p.71.〕が、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる〔鈴木旭 『面白いほどよくわかる 戦国史』 p.89.〕。 『真如堂縁起』には、足軽達が陣の構築の材料確保のため、真如堂の部材(床板や戸など)を略奪している姿が描かれている(胴具は身につけているものの、下半身には何も身につけていない)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足軽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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