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蹄斎北馬 : ウィキペディア日本語版
蹄斎北馬[ていさい ほくば]
蹄斎 北馬(ていさい ほくば、明和7年(1770年)〔天保11年(1840年)刊の『狂歌続歓娯集』の「七十一歳翁蹄斎筆」や、肉筆「布袋図」の「七十五翁蹄斎筆」から逆算(田中(1982))。ただしこの意見には議論がある(安村敏信 「蹄斎北馬筆浅草寺境内図屏風」『國華』1260号、2000年10月)。
〕 - 弘化元年8月6日1844年9月17日)〔関根只誠 『名人忌辰録』 明治27年(1894年)刊。〕)とは、江戸時代後期の浮世絵師
== 来歴 ==
葛飾北斎の門人。北斎の弟子の中では筆頭にあげられ、魚屋北渓と共に双璧とされる。姓は有坂、本姓星野、俗称五郎八。諱は光陰。蹄斎、駿々斎、駿々亭、秋園などと号す。
江戸の生まれで、下谷御徒町〔『増訂浮世絵』では「下谷二長町」とするが、「二長町」は明治以降に起立した町名である。〕(現台東区台東)に住む貧しい御家人の家に生まれた。しかし武家務めを窮屈に思い、文政元年(1818年)までに家督を弟に譲って隠居出家し、画で家計を助けるため北斎に入門したという。入門時期は不明だが、北馬最初の版本『狂歌花鳥集』は寛政12年(1800年)出版のため、入門はこの数年前だと推測される。
初期の寛政から文化期にかけては制作した制作した狂歌本読本摺物には北斎の影響が顕著である。滝沢馬琴高井蘭山振鷺亭らの読本の挿絵を、文化9年(1812年)までに少なくとも60種類発表し、同門の北鵞と合作で、黄表紙の挿絵も描いた。一方で浅草庵市人に狂歌を習い、狂歌摺物などを多数制作している。しかし、一枚刷りの錦絵は殆ど手掛けていない。文化10年(1813年)頃の刊行と見られる戯作者と浮世絵師の見立相撲番付では歌川豊国国貞についで第三位の小結の位置を占めており、名声を博していたことが窺える。文政期からは肉筆画にほぼ専念し、天保期に入ると北斎風から離れ独自の画風を確立した。特に彩色に長じ、左筆を良くし、また肉筆美人画に秀作が多い。
肉筆画の数は多く、200点〔田中達也がノートする件数による(楢崎宗重 「蹄斎北馬筆 江戸図屏風─その画業について─」、國華1057号所収。〕、或いは300点を超える〔浮世絵研究者・久保田一洋の教示による(ネルソン(2007))〕とも言われる。師風に追随せず、歌川派の作風をも取入れて独自の画風を創出しており、「春風美人図」などに見られる玉子形の顔に細い顎、両目の間がやや離れて下唇が突き出した容貌は、北馬の美人画の画風を良く示している。この図には「北馬」という落款があるが、通常は「蹄斎」と款している場合が多いので、「浅妻船図」(大英博物館所蔵)など比較的少数の作品に見られるものである。
北馬は資性孝順で、老親に仕えることに最も篤かった。当時、盛名の高かった谷文晁は、北馬の至孝に感じ入りその生計を援助し、安心して親に仕えさせている。そうして文晁は自ら描く密画の模様などを、北馬に手伝わせたりした。伝えるところによれば北馬は、この右手は師の用にのみ供すべきものであるからといって、文晁の作品の手伝いをする時には、師の北斎の許可を得た後、左筆のみでその用事を済ませたといわれる。
49歳で剃髪し、弘化元年(1844年)75才で没した。菩提寺は不明。北馬の子は二代目北馬を称している。門人には逸馬叢斎遊馬らがいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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