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昭和農業恐慌[しょうわのうぎょうきょうこう] 昭和農業恐慌(しょうわのうぎょうきょうこう)とは1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。単に農業恐慌(のうぎょうきょうこう)ともいう。 == 概要 == 昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢きん」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあったといわれる〔『現代日本経済史』(2002)p.26〕。農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだったのである。 翌1931年(昭和6年)には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童〔中村(1989)p.67によると、欠食児童は全国で約20万人いたといわれる。〕や女子の身売り〔(岩手放送)岩手百科事典 p.194 岩手県において身売り的出稼ぎは1930年6月末397人から1934年7月末1829人と激増した。〕が深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こった。また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。 1933年(昭和8年)以降景気は回復局面に入るが、1933年初頭に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また、1934年(昭和9年)は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年(昭和10年)であった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昭和農業恐慌」の詳細全文を読む
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