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通し矢(とおしや)は、弓術の一種目。堂射(どうしゃ)、堂前(どうまえ)などともいう。京都蓮華王院(三十三間堂)の西側軒下を南から北に矢を射通す競技である。いくつかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名である。江戸時代前期に最盛期となり、有力藩の後ろ盾のもと多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降は大規模な通し矢競技は行われなくなった。京都三十三間堂の他、通し矢用に作られた江戸三十三間堂や東大寺大仏殿回廊でも行われた。通し矢用に工夫された技術・用具は現代の弓道にも影響を与えている。 == 歴史 == 起源については諸説ある。保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが、伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している〔『駒井日記』4月15日條〕。なお秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである。 通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛が最初である。平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の1月19日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し天下一の名を博した。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という。)が掛かったため藩の援助が必須だった。 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となった。貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし千射種目等は幕末まで行われている。 江戸では、寛永19年(1642年)、浅草に江戸三十三間堂が創建され〔落慶の射初めは旗本吉田重信(久馬助。日置流印西派吉田印西の子)が行った。のち火災により深川に移転。〕、京都よりも多様な種目が行われて活況を呈したが、大矢数では京都の記録を上回ることはなかった。幕末に至っても通し矢は行われたが、明治5年(1872年)に解体された。 東大寺でも通し矢が行われていたようである。大仏殿西回廊外側の軒下(106.8m)を北から南に射通すもので、京都三十三間堂より距離は短いものの天井が低い(3.8〜4.1m)ため難度は高かった。天保13年には当時挙母藩士で後の新撰組隊士安藤早太郎が、4月20日酉の刻(18時頃)より翌21日未半刻(15時頃)までで総矢数11,500本中、8,685本を射通した(成功率75.5%)。 江戸時代大いに流行した通し矢であったが、当時から過度の競技化には批判があり、伊勢貞丈は『安斎随筆』で「通し矢は用に立たず、矢数を射増したる名を取るのみにて、無益なる業なり。見せ物の類なり。」と述べている。また多くの記録を樹立した尾州竹林派の内部でも、射の本質を損なうとして通し矢を行わなかった系統(岡部系)もあった。 明治以降、通し矢はほとんど行われなくなった。大矢数では明治32年(1899年)の 若林正行〔日置流道雪派、旧高槻藩士、慶應義塾師範、大正3年大日本武徳会範士〕 が4,457本を射通したのが最後の記録である。ただしその後も何度か試技は行われている。現在は毎年1月中旬に京都三十三間堂で「大的全国大会」が開催されているが、距離60mの遠的競技の形式であり、通し矢とは似て非なる物である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「通し矢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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