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逢沢 一郎(あいさわ いちろう、1954年6月10日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、衆議院議院運営委員長(第76代)、自民党岡山県連会長。 自民党国会対策委員長(第51代)、自民党幹事長代理、衆議院議院運営委員長(第67代)、衆議院予算委員長等を歴任。 松下政経塾出身者では初の国会議員であり、また初めて政務次官に就任した人物である〔当選七回で大臣の経験なし 逢沢一郎「入閣」は一族の悲願 週刊文春〕。 祖父の逢沢寛、父の逢沢英雄も衆議院議員を務めた。 == 来歴 == 岡山県御津郡御津町(現岡山市北区)生まれ。岡山大学教育学部附属中学校、慶應義塾志木高等学校、慶應義塾大学工学部(現理工学部)管理工学科を卒業。1980年、松下幸之助が設立した松下政経塾に入塾(第1期生)。1985年卒塾。 1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧岡山1区から出馬し、初当選。以後、10期連続当選。1992年、宮澤改造内閣で通商産業政務次官に任命され、松下政経塾出身者の中で初めて政務次官に就任した〔。 小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では岡山1区から自民党公認(新党さきがけ推薦)で立候補し、新進党現職の元郵政大臣・日笠勝之を破り4選。1997年、衆議院外務委員長に就任。 2003年、第1次小泉再改造内閣で外務副大臣に任命され、第3次小泉内閣まで務める。外務副大臣在職中に第43回・第44回の2度の衆議院議員総選挙が行われたが、いずれも岡山1区で菅源太郎(菅直人民主党衆議院議員の長男)を破り当選。2005年に党幹事長代理に就任。2006年、安倍内閣発足に伴い衆議院議院運営委員長に就任。2007年には衆議院予算委員長に就任した〔。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では、岡山1区で民主党の高井崇志の猛追を受けるが、高井を4077票差で破り、8選(高井も重複立候補していた比例中国ブロックで復活。これは岡山1区で次点以下の候補者が初めて当選した例である〔2009年8月31日 朝日新聞 4 - 5面 など各紙〕)。2010年9月、自民党国会対策委員長に就任。2011年9月に国対委員長を退任し、自民党総裁特別補佐に就任〔。 2012年9月に谷垣禎一の自民党総裁退任に伴い、自民党総裁特別補佐を退任。同年10月に宏池会を脱退し〔日本経済新聞 2015年3月29日朝刊 政界面関連(5面)〕、谷垣による勉強会「有隣会」に参加。 2013年10月15日、2度目の衆議院議院運営委員長に就任。 2014年、第47回衆議院議員総選挙で10選。選挙後、衆議院国家基本政策委員長に就任。 2015年、自由民主党一億総活躍推進本部長に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「逢沢一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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