翻訳と辞書
Words near each other
・ 逢瀬川
・ 逢瀬川 (音速ラインの曲)
・ 逢瀬村
・ 逢瀬祭
・ 逢田梨香子
・ 逢甲夜市
・ 逢甲大学
・ 逢着
・ 逢空万太
・ 逢笠恵祐
逢紀
・ 逢莱泰三
・ 逢葉まどか
・ 逢蒙
・ 逢見るい
・ 逢谷内
・ 逢谷内 (新潟市)
・ 逢谷内インターチェンジ
・ 逢野まや
・ 逢阪


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

逢紀 : ウィキペディア日本語版
逢紀[ほう き]

逢 紀(ほう き、? - 202年)は、中国後漢末期の政治家、武将。元図荊州南陽郡の人。〔及南陽許攸、逢紀、穎川荀諶皆爲謀主。- 《資治通鑑》 卷60〕
== 正史の事跡 ==

=== 初期の事跡 ===
聡明で計略に長じていた。何進に仕えていた頃から袁紹とは親しく、後に許攸とともにその旗揚げを助け参謀として仕えた。
英雄記』によれば、逢紀は袁紹に「公孫瓚韓馥を攻めさせて、韓馥が臆病になったところを、使者を派遣して利害損得を説明させれば、韓馥は冀州を(袁紹に)譲るでしょう。」と語った。袁紹が、この提案に従ったところ、公孫瓚は韓馥を攻撃した。
初平2年(191年)、逢紀の思惑通り、袁紹は韓馥から冀州を譲り受け、河北袁紹政権の基礎を築いた。後に、逢紀は審配と共に袁紹軍の軍務を総理した。
最古参の臣下であることや、政権の基礎を築くなど袁紹の危機を救ったため、参謀の中でも最も重用されたが、同僚であった審配・田豊とは仲が悪く、常に対立していた。特に後者との不仲は深刻で、建安5年(200年)の官渡の戦いのときに、袁紹が田豊の進言を用いなかったのは、逢紀の讒言を信じていたためと言われている。しかも敗戦後には、袁紹に讒言して田豊を処刑させたとされる〔『三国志』魏書袁紹伝本伝は、田豊の処刑は袁紹自身の猜疑心が原因としている。〕。
その一方で官渡の戦いの後に、讒言により窮地に陥った審配を「私情と国事は別問題である」として、懸命に弁護した。そのため、審配との関係は一時改善されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「逢紀」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.