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連合国遠征軍最高司令部 : ウィキペディア日本語版 | 連合国遠征軍最高司令部[れんごうこくえんせいぐんさいこうしれいぶ]
連合国遠征軍最高司令部(れんごうこくえんせいぐんさいこうしれいぶ、英:Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force、略称:SHAEF)は、1943年から第二次世界大戦が終結する1945年まで活動していた、ヨーロッパ北西における連合国軍の司令部である。ドワイト・D・アイゼンハワーアメリカ陸軍大将が最高司令官を務めていた。SHAEFの立場自体は欧州連合軍最高司令部や大西洋連合軍などと似ているが、組織として異なっていることに留意すべきである。 == 第二次世界大戦 == アイゼンハワーは1943年12月に地中海作戦戦域司令部から、ロンドンので組織されたSHAEFへと転じた。ここに隣接した通りは、現在でもシーフ・ウェイ(Shaef Way)と呼ばれている。SHAEFの参謀らはCOSSAC(連合国軍最高司令官参謀長、Chife of Staff to the Supreme Commander Allied Forces)の中将と少将によって立案されたオーバーロード作戦の外枠を受け取った。COSSACに任命されたモーガンはアイゼンハワーと面会する前の1943年3月中頃にヨーロッパ侵攻計画を練りはじめ〔See: 〕、計画の最終策定版が1944年6月6日に実行された。計画はアイゼンハワーと、侵攻の初期段階における全地上部隊の指揮官であるバーナード・モントゴメリー大将により最終的な策定案へと形を変えていった。 侵攻が始まった後も、SHAEFは十分な戦力がフランスに上陸するまでイギリスに残されていた〔アイゼンハワーが前進指揮所を設置する為にノルマンディーへと移ったのは1944年8月7日朝のことである。 〕。この時点でモントゴメリーは全地上部隊の指揮官としての任務を終了し、ノルマンディーの橋頭堡東翼に展開するイギリスの指揮を執っていた。一方、橋頭堡西翼ではオマール・ブラッドレー中将を指揮官とするアメリカが新たに設置されていた。ノルマンディーを突破した後、連合国軍はドラグーン作戦(南仏侵攻作戦)を発動する。この作戦は中将指揮下のアメリカが担当した。南仏侵攻開始の時点で米第6軍は地中海作戦戦域に設置された(AFHQ)の指揮下にあったが、1ヶ月後指揮権はSHAEFへ譲られた。この頃までに3個の軍集団は西部戦線に展開し、以後終戦まで戦った。戦線のうち、英第21軍集団は北部、米第12軍集団は中央部、米第6軍集団は南部での作戦を担当した。1944年12月、SHAEFはフランスのヴェルサイユにあるトリアノン・パレス・ホテル(Trianon Palace Hotel)に移動した。その後、2月にはランス、1945年4月26日にはフランクフルト・アム・マインへと移動した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「連合国遠征軍最高司令部」の詳細全文を読む
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