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連合軍専用客車 : ウィキペディア日本語版
連合軍専用客車[れんごうぐんせんようきゃくしゃ]
連合軍専用客車(れんごうぐんせんようきゃくしゃ)は、太平洋戦争後、日本占領した連合国軍が、日本の国有鉄道に供出させて接収し、軍用輸送に使用した客車である。
== 概要 ==
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国の発したポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、ここに3年8か月間に及んだ太平洋戦争は終戦を迎えた。アメリカ合衆国およびイギリスを中心とする連合国軍は日本各地に進駐し、日本の鉄道は連合軍総司令部(GHQ)揮下の第3鉄道輸送司令部(3rd Military Railway Service/MRS)の管理下に置かれることとなった。輸送司令部は日本の国有鉄道に対し、優良客車の接収と改造、それらによる専用列車の設定と運転を要求した。これにより、連合軍に接収された客車群がここで取り扱うものである。
終戦にともなう旅行自粛の解除による輸送量急増のため、戦争中の酷使により疲弊していた客車は、ますます荒廃の度を深めていたが、そんな中連合軍専用客車は完全整備され、敗戦国民である日本人には近寄ることもできない別天地として羨望と畏怖の対象ともなった。
接収された客車は、鉄道を現場で管理した連合軍鉄道輸送司令部事務所(RTO)の将兵が管理しやすいよう、日本人用の客車と区別するよう求められた。そのため客車には次第に軍呼称や軍番号が書き込まれた。しかしながら、RTOの将兵達は接収した客車に標記されたカタカナの記号を理解することができず、記号の異なる同番号車の混同が絶えなかったため、1945年10月11日に輸送司令部の命令で各車両に固有の軍名称(州や都市、鳥の名前等)を付すことになり、車体中央窓下部に白ペンキで標記された。その際、カタカナ記号の消去を求められたが、今度は日本人職員が困るため、輸送司令部に要求し、記号を軍番号の上部に標記することは認められたという。国鉄での形式番号は、妻面に標記された。
1946年(昭和21年)1月28日、輸送司令部は専用客車の車体塗色を、日本人用車両より明るい独自の茶色〔ミルクチョコレート色ともいわれ、後に国鉄に制式採用され、ぶどう色2号 と称した。それに対して、従来の暗い茶色はぶどう色1号と称する。〕に塗り替えるよう命令した。同年6月25日には、新たな体系による軍番号が指令され、一等寝台車から暖房車まで28種に分類されるようになった。この軍番号は、形式と構造で区別する従来の日本の方式と異なり、用途や定員別に付されており、同用途のものには一連の番号が付された。さらに10月24日には、専用客車に全て一等車と同じ白帯をつけることを要求した〔これにより従来白帯をつけていた一等車は、クリーム色帯に変更されている。〕。このときの命令では、白帯の中に「U.S.ARMY」と黒ペンキで表示することとされたが、すぐに「ALLIED FORCES」に変更することになった。これは、同じく日本に進駐していたイギリス軍に配慮したものであろう。しかしながら、アメリカ軍の司令官など利用者が決まっているものについては、「U.S.ARMY」の標記が残された。こうして同年末には、専用客車は明るい茶色に白帯という姿に整備されていった。
これらの客車は、1952年(昭和27年)4月28日対日講和条約の発効により占領が終わるまでにほとんどが返還されたが、一部の車両(郵便車)は、1970年(昭和45年)まで使用された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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