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連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま,Renbousiki-noborigama,climbing kiln)とは、焼成室(房)を斜面に複数連ねた窯の総称で、現在一般的に狭義の「登り窯」と呼ばれている窯のことを指す。日本では、16世紀末に朝鮮半島の陶工が北九州佐賀県北部波多村岸岳地区の松浦党波多氏によって階段状割竹式登窯(割竹形連房式登窯)が造られ、最古に属する唐津焼が焼かれたのがはじまりである〔窯詰め、焼成に胎土目積みが使われたのが特徴で、物原出土の遺物に目積みにもちいた粘土の団子が付着していることがある。〕。 ==初期の連房式登窯== ===割竹形連房式登窯=== 割竹形連房式登窯(waritake kiln)とは、側壁が直線的で一基の窯の内部が複数の焼成室に分割されているものである。焼成室間の段差がすくなく、通焔孔は、粘土を巻いた柱を使用したり、石を四角柱状に加工して柱にしていた。 割竹形連房式登窯は、岸岳地区中心であったが、現伊万里市周辺にも散在的に造られた。全長10~20m前後で焼成室は、10室程度と小規模であった。一方美濃の元屋敷窯は、発掘調査時に残存部分のみでも24.7m、少なくとも焼成室を14室持っていたことが分かっている。 割竹形連房式登窯の通焔孔は、横サマとか斜めサマと呼ばれる真横や斜めに焼成のために用いられる高温のガスを通す仕組みになっていて、サマの後ろに浅いけれども明確な掘り込みがあるのが特徴で、焼成室同士の段差はすくない。 17世紀初頭に美濃の加藤四郎右衛門景延がこの割竹形連房式登窯による陶器の製法を学んで美濃へ持ち込んだ〔このことの経緯は、『瀬戸大窯焼物并唐津窯取立由来書』に記されているという。〕のが織部窯として知られる元屋敷窯(現土岐市泉町久尻)である。これが美濃での連房式登窯による陶磁器生産の始まりである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「連房式登窯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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