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進藤 純孝(しんどう じゅんこう、1922年(大正11年)1月1日 - 1999年(平成11年)5月9日)は、東京出身の文芸評論家、随筆家、小説家。本名は若倉 雅郎(わかくら まさお)、旧姓は進藤(しんどう)。川端康成・志賀直哉・芥川龍之介などの論考や、同時代の第三の新人を含む昭和文学の評伝で知られるほか、随筆や小説も書いた。 == 来歴 == *進藤雅郎として生まれる。父・延(のぼる)は、芥川・花袋・横光・川端らが寄稿した雑誌『文芸日本』の創刊者。母・百合子は、のちの松竹蒲田の大部屋女優・早見照代、いったん引退ののち日活の女優・早川十志子。 *1925年(大正14年)、文芸日本社が倒産。両親が別居したことに伴い、翌年母の実家がある愛媛県川之江町に移住する。 *愛媛県三島中学、香川県高松第一中学校、立教大学予科を経て、1943年(昭和18年)旧制第一高等学校文科に入学。 *1945年(昭和20年)3月、東京帝国大学文学部倫理学科に入学。直ちに学徒出陣で召集され横須賀海兵団に入隊するが、8月終戦により除隊。 *1946年(昭和21年)、新潮社出版部に入社。川端康成・志賀直哉・石原慎太郎などを担当。 *1948年(昭和23年)、若倉美登里と結婚、若倉姓となる。 *1950年(昭和25年)9月、東京大学倫理学科を卒業、大学院に進む。 *1952年(昭和27年)、『文学界』9月号にアルベール・カミュ論「運命の確保」が掲載される。 *この頃から『文学界』のすすめで出来た「一二会」などを通じて、島尾敏雄・小島信夫・五味康祐・近藤啓太郎・安岡章太郎・三浦朱門・庄野潤三・吉行淳之介・日野啓三・奥野健男・村松剛・服部達・遠藤周作らと親交をもつ。 *1953年(昭和28年)、大学院修士課程修了。新潮社に復職、『川端康成全集』を担当する。 *1959年(昭和34年)、新潮社を退社。 *1969年(昭和44年)、日本大学芸術学部教授となる。 *1972年(昭和47年)、日本文藝家協会評議員となる。 *1973年(昭和48年)、ソビエト連邦作家同盟の招きで小川国夫・田久保英夫らと訪ソ。 *1974年(昭和49年)、『ロシア三人旅』『七色の風船』を出版。 *1977年(昭和52年)、第三の新人との交流を書いた『文壇私記』を出版。 *1989年(平成元年)、初の小説『都に死す』を出版。 *1991年(平成3年)、日大を退職。 *1999年(平成11年)、死去、満77歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「進藤純孝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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