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遊佐 続光(ゆさ つぐみつ、? - 天正9年6月27日(1581年7月27日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。能登畠山氏の家臣。父は畠山義総の代の家臣・遊佐総光(同時期に守護代を務めた遊佐秀頼とする説もある)。妻は平信光の娘(長続連の姉または妹)。子に遊佐盛光がいる。美作守。能登珠洲郡を領していた。元服に際して、主君・畠山義続より偏諱を受けて続光と名乗る。 == 生涯 == 畠山七人衆の一人で、天文22年(1553年)、同じく七人衆の温井総貞と畠山家中の主導権をめぐって争い、大槻一宮合戦で敗れて加賀国に逃亡した。弘治元年(1555年)、温井総貞が畠山義綱に誅殺されたため、帰参して再び重臣となった。 主君の義続は好色家で家臣の若い娘たちを集め、怯える少女に乗馬を強要した。多くの娘 は馬を乗りこなすことができなかったが、続光の娘だけは見事に馬を乗りこなした。 美少女だった彼女を気に入った義続は続光に娘を妾として差し出すよう命じるが拒絶される。そこで義続は続光が留守の間に彼の家へ乱入し、娘を拉致して強姦した。 これに続光は激怒し、永禄9年(1566年)に畠山義続・義綱父子を国外に追放し、義綱の子義慶を傀儡として擁立した。 元亀5年(1574年)の義慶の急死も、一説にはこの続光による暗殺説が疑われているほど、家中で専横の限りを尽くした。 織田信長の勢力が能登国にまで伸びてくると親織田派であった義兄弟の長続連(畠山家重臣)が続光に代わって台頭する。このため、親上杉派であった続光は一時主導権を失ったが、天正5年(1577年)に越後国の上杉謙信が能登に侵攻してくるとこれに内応し、長続連の一族をことごとく殺害して、上杉に降って能登の実権を完全に我が物とした。 しかし、謙信の死後、再び織田軍が能登に攻め込んでくると、続光は息子の遊佐盛光とともに信長に降伏して保身を図ったが、信長は長一族を殺した罪を許さず、続光父子は処刑された(『信長公記』)。異説として降伏ではなく早々に七尾城を逃げ出して潜伏していた所を長連龍に探し出されて一族皆殺しにされたという説もある(『長家家譜』)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遊佐続光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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