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道生(どうしょう、355年 - 434年)は、中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は魏氏。鉅鹿(きょろく、河北省巨鹿県)の出身。竺道生(じくどうしょう)とも呼ばれる。 == 生涯 == 幼少時から竺法汰(じくほうた)に随い出家し、15歳で講座に登る。したがって、彼に「竺」の姓をつけて竺道生ともいうのは、ここに由来する。 当初、東晋の隆安年中(397-401年)に江南の廬山に居た慧遠に師事した。その後、姚秦弘始3年(401年)に鳩摩羅什が長安に到来し経論を翻訳する事を聞き、慧観、慧叡、慧厳らの僧たちと共に北へ向かい、羅什三蔵の弟子となり、羅什門下四傑の一人に数えられた。長安では、 :情に通ずるのは則ち(道)生と(道)融を上首とす。難に精しくするのは則ち(慧)観と(僧)肇を第一とす。(『高僧伝』巻7) と評された。 羅什は法華経を訳したことで知られるが、道生は師である羅什の思想を受け継ぎ、法華経義疏を以って著し、後の天台智顗へと繋がっていく法華経解釈を創始した。このことにより当時は、唯識また般若教学に傾いていた仏教教学を法華経へと導いたといわれる。 義熙5年(409年)、羅什が逝去すると建康に帰り青園寺に住した。羅什が亡くなった後に、法顕が訳した大般泥洹経六巻(涅槃経の前半部のみ)が伝えられ、羅什門下の衆僧はみな競うように泥洹経を研鑚したという。しかし、周りの衆僧たちが経典に表れた表面的な文字に固執し、深く仏意を思惟ないことに対し、「悉有仏性説」に基づいた「頓悟成仏義」を主張して、二諦論や法身無色論、善不受報、仏性当有論などを著して、慧観らと論争になった。これに対し建康では、 :(道)生と(慧)叡は天真に発し、(慧)厳と(慧)観は窪(ふか)く流(もと)めて得たり。(『出三蔵記集』巻15) と評された。 この頃に、五時八教の教判のルーツとなる、独自の教相判釈(以下)を道生が打ち立てた。 #善浄法輪(ぜんじょうほうりん) - 在家信者のために説いた #方便法輪(ほうべん) - 声聞・縁覚・菩薩のために説いた #真実法輪(しんじつ) - 法華経を説いた #無余法輪(むよ) - 大般泥洹経(だいはつないおんきょう、法顕訳の涅槃経前半部のみ)を説いた さらに道生は、法顕訳の泥洹経を研鑚し、闡提成仏の義を宣揚したが、これが元で他の衆僧たちから賓斥され、追放された。当時の涅槃経は前半部しか伝わっておらず、そこには闡提(仏法を否定し誹謗し悔悟しない人)は成仏しにくいことが繰り返し説かれていたからである。 その時に道生は「我が所説は、もし経義に反するれば現身において癘疾(れいしつ)を表さん。もし実相と違背せずば、願わくば寿終の時、獅子の座に昇らん」と誓い、蘇州の虎丘寺に立ち去ったという。伝説によると虎丘寺の山中で道生が山川の石に向かって涅槃経を説き、また闡提成仏の義を説くと、石の群集はみな首肯(うなずいて)して、飛び上がって喜んだといわれている。 元嘉7年(430年)に、再び廬山に戻る。しかし同年、南宋に曇無讖訳の北本涅槃経(泥洹経に書かれていない後半部を含む涅槃経)が伝わり、慧観らが法顕訳の六巻泥洹経と統合訂正して「南本・大般涅槃経」が完成すると、そこには闡提も成仏することが説かれており、道生の唱えた闡提成仏の義が正しいことが証明され、衆僧たちは皆、その先見の明に感嘆し服したといわれる。 道生の業績は計り知れず、唯識・般若から法華、また涅槃へと導いたことは、後に智顗が開いた天台宗にも影響を与えたといわれる。 元嘉11年(434年)の11月、廬山において法座に昇り説法が終るや眠るように入滅したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「道生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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